ベルサイユ製麺

リバーズ・エッジのベルサイユ製麺のレビュー・感想・評価

リバーズ・エッジ(2018年製作の映画)
3.5
大昔。本当に大昔、表舞台から姿を消すより前、SDPと一緒にパーソナリティを務めていたラジオ番組で、オザケン氏が語っていた思い出話がずーっと忘れられないでいます。(記憶なので、細かい言い回しとかは違うと思いますが)

「もう暗くなるくらいの時間帯、居間で寝ていたら急に外が明るくなって、で外を見てみたら物凄い勢いで椅子が燃えてたんだよ。で、人を呼ぼうと思って、椅子が燃えてますよーって大声出したんだけど、全然誰もこなくて。しょうがないからって見に行ったら、ソレ人間だったんだよね」

特別な話です、という風でもなく普通の思い出話の一つとしてコレをチョイスするオザケン氏の感性に、なんとなく、しかし強烈に“人間には種類があるのだなぁ”と思わされたものです。
そして自分はCUTiEより宝島が、渋谷系よりパンクが好きで、岡崎京子さんは読んでいない種類の人間でした。…と思ったら、映画を観て思い出しましたが、この作品は読んでましたね。友達の家に有って、ゴロゴロしながら読んだんだな、きっと。その時は、《こんなの普通に読みてえなぁ…》みたいな、凄く捩くれ曲がった気持ちになったんだったっけな…。

自分は単純に言って、現実のハードさと向き合うのが怖いから、岡崎京子さんを読んでいなかったのだと思います。同じオシャレコミック的な括りでも、松本大洋や冬野さほとかは平気で読んでたし。

あくまで自分にとってはですが、今みたいに、誇張された架空の人格を頑丈に細密に作りながらお互いを削り合うのとは違って、90年代って生身の自分をどれだけ刻み合えるかを競っていた時代だった様に思えてました。命知らずに突っ込んでいく奴ほどスゲェ!みたいな。(鬼畜系とかもその流れだったのかな?)
原作から強烈に感じ取れたその辺りの空気感は、この実写版からも一応漂ってはいるのですが、それは自分に向けて…では無いと思いました。ホントくだらない事をハッキリ言ってしまえば、行定監督と二階堂ふみさんが苦手なのですよね…。映画を観るにあたって、そんな事を意識してしまうなんて、なんて不幸な事だろう。「ハルナどうするの⁉︎」「…みんなどうなっちゃうの?」って、没頭出来たらどんなに幸せか…。
本作のスコアがレビュアー様によってバラバラなのも、その辺りが影響しているのではないかな?って思います。それか、そもそも映画自体はどうでもよくて、個人の記憶と向き合ってしまっているか。

宝島→DOLL→elekingへ流れ、パンクから一瞬だけ渋谷系着地→テクノに流れ、自室とレコード屋、たまにクラブだけを行き来してた自分としては90年代ストリートの空気感は正確には掴みかねてしまいますが、あのMA-1の着こなしにはちょっとグッときてしまったなぁ。今のウルトラビッグシルエットのMA-1も、20年後には誰かの胸を刺すのだろうか?もっともっと大きくなって、基本的には脚首でズルズル引き摺る物になってたりするのか?MA-1よ。

エンディングの、今のオザケン氏の曲には言いたいことがパンパンに充填されてる感じがして、『LIFE』の頃の、胸をいっぱいにしてくれる甘い空虚感は感じられませんでした。今なら個人的にはceroやD.A.Nの楽曲を充ててみたくなりますが、オザケンと岡崎京子の物語は、少なくとも彼の中では更新され続けているに違いなくて、だから外野は黙ってるのが正解なのだな、きっと。
ところで、行定監督は正直なところ岡崎京子さんはお好きなのだろうか?何処かに今作に向けての意気込みとかのテキスト有るのかな?
いつもの手癖で撮ったのか、それとも“俺の中の岡崎京子はコレなんだよ!”って気持ちを燃え上がらせながら撮ったのか?…まあ、どっちにしても、自分の中の(想像の中の)岡崎京子とは違ったなぁ。

「これは完璧に私の作品通りです」って、岡崎京子さんが仰ってるところ想像したら、ちょっと涙が出たよ。