チーズマン

デトロイトのチーズマンのレビュー・感想・評価

デトロイト(2017年製作の映画)
4.4
主人公は…。


1967年にデトロイトで起きたアメリカ最大規模の暴動、その最中に起きた多数の死傷者を出した“アルジェ・モーテル事件”とその顛末を描いた社会群像劇。



緊張の渦の中に放り込まれます。
いやあ、怖かったです。
私はこういうのが本当怖いんだなと思わさせられました。
もちろん人種差別や白人警官への怒りもある、それも全て含めて暴動によって人々が狂気に駆られていくこの空気全体が怖かったです。

これをキャスリン・ビグロー監督が、群像劇として描いてくれて、私はすごく良かった。
分かりやすいドラマ性を排してまで描く価値は絶対にある作品、賞レースがなんだというんだ。

最初は、暴動によって人生を変えられたラリーという1人のシンガーのドラマにする予定だったんですよね、この映画。
ラリー本人に話を聞いたり取材を重ねる中で、これはとても1人の人間の話としては描けないということで群像劇にしたそうです。
だから、あのモーテルの事件が強烈な印象なのは間違いないですが、それだけを描く映画ではありません。

最初、キャスリン・ビグローの新作は群像劇と聞いてどうなるのか想像がつかなくて、前作、前々作と何かに取り憑かれたように狂気じみた、危なっかしくて観客をを不安にさせながらも目が離せない“主人公”で話を引っ張っていたので、群像劇のように明確な主人公を置かないタイプの作品はどうなるのかと思ったけど、なるほど、ちゃんと主人公がいましたね。
それは誰か、今回は人物じゃない、こちらを不安にさせながらも目が離せない狂気の主人公、それはタイトル通り、1967年夏の“デトロイト”が主人公です。

だとすれば、この“主人公”を描くこに関してやはり見事な作品だったと思います。
群像劇と言っても大きく3つのブロックに分けられ、それ自体がいわゆる三幕構成になって群像劇を分かりやすくしているだけじゃなく、その3つのブロックをマクロ、ミクロ、メゾ とそれぞれ違う尺度の視点から描くことで、「とにかく最低な白人警官がいたんだよ」以上のものが浮かび上がってくる、だからこそ第3の尺度の視点が入るの最後のブロックでの結局の現実に心底ゲンナリするという、今回のような“主人公(デトロイト)”を描く上でこれ以上ない構成だったと思います。


やはりアルジェ・モーテルでの4、50分ものあのシーンは本当にキツかった。
通常とは違う狂気に満ちた空気の中で、発する言葉1つ、目線1つ、仕草1つで事態がどう転ぶのか分からない、この事態が何処へ向かうのか当の白人警官達自身もおそらく分かっていない感じが更に恐怖だった。

特に事件の主犯格の警官クラウスのクズさはズバ抜けてましたね。
そして、その役を演じたウィル・ポールター、モーテルの場面では罪悪感と自己嫌悪でずっと合間で泣きながら撮影していたという彼の演技は今まででもベストアクトじゃないでしょうか。


そして終盤に、人種差別の現場に対しての“傍観者も同罪である”とも取れる痛烈なメッセージを、ジョン・ボイエガ演じるディスミュークスを通して、こちらに突きつけてきます。
彼がなぜ嗚咽したのか。

あと、あんな胸糞悪いナイフの使い方は初めて見た。



この強烈な映画の中でも個人的に無性に頭に焼き付いたシーンがあります。

アルジー・スミスが演じるラリー・リードが自分達のグループの出番の直前、に暴動の危険から中止になり誰もいなくなった客席と落とされていく照明の中1人ステージで「いくら金があっても愛がなければダメなのさ、愛がすべてなのさ、それがないキミは孤独さ、キミは孤独さ…孤独さ…」と愛の歌を熱唱します。
もちろんこの作品へのレイシズムやそこから火が付いた暴動や狂気へ向けて歌われた意味合い、他にも色々と重なった良いシーンですが、照明が消えゆく誰もいないステージで「キミは孤独さ…」と1人歌うラリーの姿、本当なら満席の観客の前で成功を掴んでいたであろう彼が歌い終わった後の本当に虚しい表情が頭に焼き付きついた。
そして事件も何もかも終えて最後、ラリーが協会で聖歌を透き通る声で歌い上げた時、彼の心は少しは救われただろうかと思ったら歌い終わった後、彼はあの時の空っぽのステージと同じ虚しい表情をするんですよ。

本当なら叶ったであろう夢と人生を奪われた壊された若者の、“あの表情”でこの映画が終わるところに、とても重たい余韻が残る。

大きな歪み、その先にはいくつもの“あの表情”があるんだろうなと思わせる映画でした。
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