ナガエ

デトロイトのナガエのレビュー・感想・評価

デトロイト(2017年製作の映画)
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いつだって本当の悪は、正義の側にある。いや、正義というか、正義を体現するはずの権力の側に、というべきだろうか。

権力が悪を発揮したら、それに抗う術はほとんどないだろう。

いつの世でも、権力側は様々な力を使って、様々な悪に手を貸してきたことだろう。もちろん、権力の側でも、悪に手を染めるのはごく一部だということぐらいは分かっているつもりだ。しかし、たとえごく一部であったとしても、権力側が発揮する悪の強さはあまりに圧倒的なので、その影響力は大きい。

抗えない悪に接した時、僕らはどうすればいいのだろうか?闘うべき相手が明白であっても、闘って勝てるはずのない相手だった場合、何が出来るだろうか?

結局僕らに出来ることは、祈ることぐらいだろうか。そういう悪に、一生出会わないでいられますように、と。

内容に入ろうと思います。
1967年7月23日、アメリカ第五の都市・デトロイトで、史上稀に見る大規模な暴動が発生した。きっかけは、デトロイト市警が、低所得者地域にある違法酒場へ踏み込んだことだった。経営者が酒取扱許可書を持っていなかったことによる取り締まりだったが、それに反発した黒人市民が蜂起、火炎瓶を投げたり略奪をしたりして、デトロイトの街は壊滅状態となっていった。
暴動三日目。アルジュ・モーテルでその事件は起こった。当時そのモーテルには、黒人のバンド・グループのメンバー、白人女性二人、そしてその白人女性がモーテルで知り合った黒人たちがいた。黒人の一人が、暴動を警戒して配備している市警や州兵をちょっと脅かしてやろうと、陸上競技のスタート用のピストルを使って発砲した。もちろんお遊びのつもりだったが、警察はすぐに反応し、モーテルを取り囲んだ。そして銃を持って中へと突入し、逃げ出そうとしていた黒人一人を射殺、そしてモーテル内にいた全員を壁に向かって一列に立たせ、「銃の在り処を言わなければ殺す」と脅しながら痛めつけていた。
そのモーテルの向かいで警備の仕事をしていた黒人のディスミュークスは、騒ぎを予感してモーテルに入っていった。デトロイト市警の横暴を目にしつつ、白人警官を敵に回しては街では生きていけないことを知っている彼は、いきり立つ白人警官を横目に見ながら、なんとかこの事態を最小限の被害で食い止めようと考えるが…。
というような話です。

今から50年も前の出来事であり、今とは時代が違う、と言えばそうなのかもしれません。とはいえアメリカでは最近でも、白人警官が黒人を痛めつけている(あるいは射殺している)というニュースを見聞きすることがあります。州にもよるのかもしれませんが、状況は決して大きくは変わっていないのかもしれません。

この映画は、実際に起こった出来事をベースに描かれてはいますが、映画の最後に、「この事件の真相は解明されなかった。この映画の一部は、当時の記録と当事者の証言から作られている」というような表記が出ていて、つまりこの映画での描かれ方が実際に起こったことかどうかは100%確証はない、ということになります。とはいえ、映画を観た人間としては、この映画をベースに判断するしかないので、そういう立場で書くことにします。




権力側の横暴を見聞きする度に僕が感じることは、当然それは個人の問題でもあるのだけど、権力側にいるという立ち位置の問題でもあるということだ。この映画では、クラウスという白人警官が結構ヤバい奴で、彼の指示の元、その夜の惨劇が進んでいく、という感じになります。もちろん、実際のところはともかくとして、映画で描かれるクラウスは、個人としても大きな問題があるでしょう(そう判断できるのは、モーテルの事件の前にも、白人を射殺しているからです)。とはいえ、同時に言えることは、彼は権力側にいるからこそこういう行動を取ってしまった、ということです。

有名な実験があります(確かスタンフォードの監獄実験、みたいな名前だったと思う)。適当に集められた被験者を、ランダムに囚人側と刑務官側に分ける。そして、それぞれの役割を一定期間演じさせると、次第に本当にその役柄通りの人格になっていく、というものです。特に刑務官側に割り振られた人たちは、どんどんと横暴になっていく。被験者は、適当に集められた人たちであり、さらに囚人か刑務官かもランダムに選んだ。だから、刑務官役をしている人たちに特定の性質があったわけではないと言えるのだけど、それでも、刑務官という役割を演じさせると、人格に大きな影響が出てしまう。

クラウスという白人警官が、元々ヤバい奴だったのかどうかに関係なく、どんな人であっても、自分の役割に人格が引き寄せられてしまう、ということはどんな場合でも起こりうるわけです。




そういう意味でこの映画を、他人事だと思って観ているわけにはいかない、といえるでしょう。誰でも、その立場になれば、クラウスと同じ振る舞いをする可能性はある。そんなこと絶対にしない、と断言出来る人間こそ、注意した方がいいでしょう。それほど、権力というのは、人間を変えうるのです。

映画を観ながら、もう一つ考えたことがあります。それは、自分があの場にいたとして、クラウスを止めることが出来たか、ということです。これもまた、とても難しい問題でしょう。

黒人であるディスミュークスがクラウスを止めることが出来なかったのは、仕方ないことだと思います。それは無理でしょう。現場にはデトロイト市警だけでなく、州兵もいたし、ミシガン州警察もいました。彼らももちろん、クラウスの行為(殺人はともかく、拷問まがいの尋問)は見ている。しかし彼らも、彼らなりの理屈があってクラウスを止めない。

自分だったらどうするか。あの現場に、どういう立場の人間として存在していたら、クラウスを止めることが出来たか。

そう考えるとやはり、アメリカの銃社会の恐ろしさに考えが行き着いてしまいます。正直、相手が銃を持っている場合、自分がどんな理屈でどんな行為をしようとも、それが相手の理屈において「間違っている」と判断されれば発砲される可能性がある。銃ではなく、ナイフ程度であれば、まだやれることはあるかもしれないけど、相手が銃を持っていたら諦めちゃうだろうな、と思いました。

アメリカでは、どんな狂人であっても、それなりの手続きさえ踏めば誰でも銃を手に入れることが出来る。しかもクラウスは、様々な規則はあるとはいえ、悪を取り締まる側として銃を持っているので、自身の発砲を正当なものと見せかけやすい立場にいる。もちろん普通の状況であれば、理性や正義感や倫理観などが自分の行動を押し止めるだろう。しかし、普通ではない状況もあり得るし、そういう状況で銃を持っていれば、理性や正義感や倫理観などが発動する前に引き金を引いてしまう可能性だってある。

アメリカではここ最近立て続けに、学校での銃乱射事件が起きていて、銃規制の声が高まっている。しかしアメリカにおいては、銃容認派が絶大な力を持っていて、どれほど多くの人が乱射事件で命を落としても、銃規制への動きは進んでいかない。

銃さえなければ、モーテルでの事件は起きなかったのかと言えば、それもまた違うだろう。一般市民が銃を規制されたとしても、警察は銃を携帯できるからだ。状況は、大して変わらない。だからこの映画に大して銃規制の話を書くのは筋違いなのだけど、アメリカという国が病根として抱え続けているこの問題は避けては通れないと感じたこともまた事実だ。

間違ったことをした人間が常に罰せられるべきだ、などという理想を語るつもりはない。しかし、正しいことをしている人間が損したままの社会は、社会の構成員全員で改善していくべきだとは思っている。
ナガエ

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