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グッバイ・ゴダール!のTOSHIのレビュー・感想・評価

グッバイ・ゴダール!(2017年製作の映画)
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映画ファンには、二種類いると思う。ジャン=リュック・ゴダール監督を神と崇める人と、殆ど作品を観ない人だ。中間層は、殆どいないだろう。それは映画を映像体験と捉えるか、ストーリー主体のカタルシスを求めるかの違いとも言える。私は前者だが、ストーリーや俳優の演技に依存せず、むしろそれを切り刻み、断片的なインパクトのある映像の洪水で観客を圧倒し、意味を超越した豊饒さを感じさせる、その天才的創造力は、映画史を通しても並ぶ者がいない。「さらば、愛の言葉よ」(2015年)では、ゴダール監督が初めて3Dの映画を撮った事に興奮したが、まだ新作「イメージブック」が日本公開されない中、こんな作品が登場した。

昨年亡くなった、ゴダールの二番目の妻アンヌ・ヴィアゼムスキーの自伝的小説の映画化であり、ゴダールが監督をしている訳ではないが、「アーティスト」のミシェル・アザナヴィシウス監督により、思いの外、面白い作品になっていた。先ずゴダール役のルイ・ガレルが、頭の禿げ具合等、外見がそっくりだ。ノーベル文学賞作家フランソワ・モーリアックを祖父に持つアンヌ(ステイシー・マーティン)は、哲学を学ぶ一学生だったが、ゴダール監督の「中国女」の主役に抜擢される。ガレルがかなりゴダール本人に寄せて行っているのに対して、マーティンは距離を置いて自分なりに、可愛らしい女性を演じている感じだ。ゴダールへの尊敬が愛に変わった感覚が、よく表現されている。
アンヌとゴダールが結婚を決めた事から、映画の記者発表会は、結婚の話ばかり訊かれた上に、試写会の評判は芳しくなく、ゴダールは落ち込む。時は1968年の5月革命の時代であり、ゴダールはアンヌを連れて、デモに参加するが、学生主催の討論会では、一部の学生からブルジョワのペテン師と罵られる。傑作である中国女を撮った時期のゴダールが、随分と酷い扱いを受けていたのが意外だが、どうやら本作は、“映画の神”としてのゴダールではなく、等身大の、“人間・ゴダール”を描いている事が分かってくる。デモに参加する中で、何度も眼鏡を落として破損する間抜けさに笑ってしまうが、ゴダールとアンヌが局部を晒し裸で話すシーンや、ベッドシーンの赤裸々な描写も、想像した事もないゴダールの姿で、長年のファンには衝撃的だ。

ゴダールは、政府や映画業界に抗議するため、フランソワ・トリュフォー監督らと共にカンヌに乗り込み、映画祭を中止させるが、パリに戻ると、「ゴダールは死んだ」と宣言し、ル・モンド誌のジャン=ピエール・ゴラン(フェリックス・キシル)等と共に、匿名で集団的に政治的映画を制作する「ジガ・ヴェルトフ集団」を結成する。また、ベルナルド・ベルトルッチ監督(グイド・カプリーノ)から誘われたローマでの映画会議に、アンヌを連れて出席するが、自説を譲らず、ベルトルッチを怒らせて絶交してしまう。政治への傾倒を強めるに連れて、他人の退屈な思想への敵意を剥き出しにするようになり、古くからの友人達も傷付け、どんどん孤立していくゴダールを見つめるアンヌの、彼への感情の変化が痛い程に伝わって来る。そんな時、マルコ・フェレーリ監督からアンヌを主役に映画を撮りたいとオファーが来て…。
タイトルからも分かるように、事実通りに最終的に二人は離婚する訳だが、普遍的且つ魅力的なラブ・ストーリーに仕上がっていた。カンヌの別荘で過ごすシーンの甘美な美しさと、そこからの帰り道の車中、夫婦の他6人がすし詰めでギスギスした会話をするシーンが良かったが、映画館で観る「裁かるるジャンヌ」(女と男のいる舗道で同様のシーンがあった)に、ゴダールとアンヌの台詞を重ねたり、ゴダールがカメラで自分の頭を撃ち抜く仕草を見せる等、オマージュ的な演出も楽しかった。随所に黄色や赤色のゴダール的色彩が、溢れているのも嬉しい。

私は基本的に、過去の有名な人物や出来事を映画化する発想を褒めないが、過去のゴダール監督自身や私生活が、これ程までに映画的なテーマになるとは思わなかった。大きな飛躍はなかったものの、原作に注目し、こんな現代的な楽しい映画にまとめあげた、アザナヴィシウス監督の手腕に感嘆した。製作の許可はしたようだが、ゴダール監督は本作を観てどう思うのだろうか。
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