140字プロレス鶴見辰吾ジラ

シェイプ・オブ・ウォーターの140字プロレス鶴見辰吾ジラのレビュー・感想・評価

4.3
”弱き者たちよ、美しくあれ”

2017年は、ヒラリー・クリントンの年。
2018年は、ドラルド・トランプの年。
これはライアン・クーグラーの「ブラックパンサー」にも同じことが言える。映画に政治的思想を持ち込むと、ある種鼻に着く優等生感が出てしまうが、そこに弱き者や孤独な者の体温が宿った時に、映画が本来持ちえる物語の力が我々に寄り添ってくれることに気が付く。

2017年、ヒラリー・クリントンが大統領選に勝つであろうとの思惑で世に放たれた、女性の強さを描いた映画が世間をにぎわせていた。例えば「ワンダーウーマン」「美女と野獣」である。そこに付与されるポリティカルコネクトの存在。本音を言うと「美女と野獣」が心底嫌いだった。映画体験としてのファンタジックな熱量に間違えはないが、貼り付けられたような女性の強さやLBGTイズムの優等生感が、クリエイターの体温を上塗りしていたようで、心に寄り添ってくれない、私の文脈で”リア充”映画なのだからだと思う。

2018年は、ドナルド・トランプへの対抗心剥き出しで描かれた映画が世に送られている。2017年からすでに存在しているが、米国と日本にタイムラグがあるのは了承に上で書く。黒人のブラックパワーの熱量や、静かに語られる同性愛や、異質性や孤独性。それが強いアメリカをもう1度蘇らせようという風潮の中に、声をあげることが許され、そして認められたい者たちの叫びのような体温がたしかにウネリを上げているのがわかる。

本作「シェイプ・オブ・ウォーター」は、政治色が剥き出しになった映画ではない。これは愛の物語である。決してモンスター映画であっても、マイノリティ映画であっても、ダークファンタジーのテイストがあっても、そこには異質にして本質の”愛”が確固たる熱をもって存在している。

弱き者、醜い者、孤独な者。
それは他人に理解されぬ部分が多分にある。
本作のヒロインのイライザや友人のゼルダやジャイルズは、話し相手はたしかにいるのだが、本質的な孤独な者たちだ。声の出ない者、家庭内の不和、同性愛。そしてヒロインに対しての男型であり、醜い存在、理解しえぬ存在の彼がこの物語のキーとして存在している。

それを力で抑制しようとするマイケル・シャノン演じるストリックランドの高圧性が、物語の不快要素として見事に機能(劇中はっきりとパワー・オブ・ポジティブシンキングを愛読していることがわかる描写がある)しているがゆえに、世界を支配しようとする力に対してのマイノリティの嘆きが反物質エネルギーのように私たちの心に作用している。

イライザの本質的な孤独を映したミュージカルシーンの導入のさせ方は、ストレートすぎるも、それを失ってしまえば、また本質的に他者に理解されぬ孤独な世界に引き戻されると気持ちを映画的に解き放つ場面は傷口に警棒を押し込まれるような痛みをもたらす。

常に場面に象徴的に作用する緑のイメージに支配されつつ、そこに赤が加わったときのエモーショナルに彩られ、この愛の物語はクライマックスを迎える。ギレルモ・デル・トロがダークファンタジーのドレスコードのようにラストへ向かいながら、醜さが確かな美に変貌していく姿は、「パンズ・ラビリンス」の無垢なイメージを下地にしていながら、哀しき終焉か、解放された幻想上の愛か、はたまた我々の願望か…。「ララランド」にて描かれたミュージカルシークエンスの導入が、舞台装置でなく心の解放を限定空間にて発動させる、精神的なエネルギーの解放であるがゆえに、幻想的で癒しのある本質的な美しさをラストシーンにて頂点に達させているがゆえに、抑えきれぬ涙が内からしっかりと解放された。本当に驚くほど、その瞬間に溢れだしてきた。

異質にして本質な愛の形の物語。



アカデミー作品賞は「スリー・ビルボード」が獲得するであろう。脚本力が頭1つ抜けているのは事実である。しかし監督賞はギレルモ・デル・トロに獲得してほしいと切に願う。本質的な孤独に寄り添おうとした、今作の体温、クリエイターの息遣いは、たしかに涙を流すという行為で与えられたと思うからだ。