ケーティー

シェイプ・オブ・ウォーターのケーティーのレビュー・感想・評価

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人間を人間たらしめるものは何かを描く現代のおとぎ話。


序盤でわりとすぐ表れる主人公の中年女性の朝の行動に驚かされる。この話でこの役柄で、こういうことをさせるのかという衝撃がある。しかし、このシーンが効いている。そもそも本作はある種のおとぎ話で、主人公も純粋な心をもった障害者であるがゆえ、ともすれば、絵空事、私たちの日常には迫ってこないのである。しかし、このある種のセックスシーンがあることで、ファンタジーな主人公にも私たちと同じ欲望があることをみせ、現代とおとぎ話をつなげるのである。(注)

このシーンを含む3つのセックス的なシーンは実際本作で重要な意味をもっている。モザイクシーンもあるセックスシーンを繰り広げるのが、本作のいわば敵役。ここでの激しい腰の振り方など、この敵役も主人公と同じくセックスの欲望に極めて忠実なのである。
本作の骨格には、セックスの欲望に忠実な二人が辿るまるでオセロの表と裏のような反対の末路がある。敵役を通して、人間が神に近い存在なのかという普遍的なテーマを扱うなど、同じ欲望を出発点としながらも、その愛や生き方で違う表現を見せる主人公と敵役の対比が見事である。

また、主人公と敵役以外の人物関係もよく練られており、複合的である。主人公と同居人の関係も予想を裏切る展開が待っていたり、家族以外の人々とつながりを見出だす主人公とその周りの人々と、ボルティモアだが一戸建てをもち、家族もいてアメリカでの成功の証キャデラックを乗り回す敵役との対比も面白い。

また個々の人物描写も深い。中年女性のリアル、研究員と敵役のサラリーマン的苦悩などをよく描いている。敵役のラストは仕方ないと思いつつも、その家族のことを考えると可哀想(ただ実はおそらく死んでないのも、ポイント。そのあたりはそのへんのリアルも踏まえてるのだろう)。

俳優陣は、サリー・ホーキンスの名演はもはや言うまでもないが、その友人役を務めるオクタヴィア・スペンサーの愛嬌ある魅力がいい。ともすればとんでもなく暗くなりがちな本作に明るさをあたえているのは、ミュージカルの音楽とオクタヴィアの存在だろう。その人物像は「ドリーム」の時とそんなに変わらないのだが、彼女がいつももつ快活な魅力に、主人公だけでなく観客も元気づけられる。この役は、セリフも面白く、夫は会話はしないが屁はシェイクスピア並みの表現力と愚痴るなどそのユーモアがいい。


※以下の注と捕捉は、一部ネタバレあり。




(注)実際、このシーンの意味をギレルモ・デル・トロ監督はインタビューの中で、本作は「美女と野獣」のアンチテーゼのもとに成り立っていることから説明している。「美女と野獣」が人を見た目で判断してはいけないことをテーマにしているにもかかわらず、「若く」、「綺麗な」女性が主人公で、野獣もイケメンの王子に変わることがおかしいと監督は考え、本作の怪獣は変身させず、また主人公を「中年の」、「そこまで綺麗でない」女性にしたという。そして、独り身のもてない中年女性なら朝にオナニーをするのは普通だろうという発想から敢えてこういうシーンを作ったと語っている。


【捕捉1】
細かな描写でうまいなと思った点を以下列挙する。

・劇場が空席という伏線。
→序盤で劇場に今度来てくれと主人公が誘われるシーンがあるが、これは主人公の住む環境の説明だけでなく、終盤誰もいない空席の劇場が出てくるシーンでの説明を省く(人がいないから入れたなどの説明)、いい伏線になつている。
・タイムカードのシーンを事前に描く。
→これを入れとくことで、友人がアリバイづくりにさりげなく協力するシーンで説明しなくてすむようになっている。
・バスに乗るシーンでクセで味を出すうまさや変化を描くうまさ。
→バスのシーンもただ座るのではなく、窓にストールのようなものを置き顔をよせるというワンモーションを上乗せするだけでシーンの風情を高めている。また、こうしたシーンが後半のうきうきする主人公の描写との対比につながっている。
・キャデラックの使い方。
→本作では、キャデラックが象徴的に使われており、特に車庫でキャデラックがぶつけられた後のシーンは、敵役の敗北を印象づける効果的なシーンになっている。

【捕捉2】
本作は時代設定もいい。セキュリティ的なことを考えると現代では成り立たない。それでいて、古すぎない時代。このあたりも絶妙で、冷戦のことも話に絡めて、時代をうまく使っている。

【捕捉3】
本作の主人公の名が、イライザ。これは、おそらく同名の女性が主人公の「マイ・フェア・レディ」を意識しているのだろう。そう考えると、本作では、ヒギンズに代わり女性が、それも聴覚障害者がモンスターに言葉を教え、紳士的に育てるのだから、そのあたりも意識して作ったのだろうと考えると興味深い。