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あゝ、荒野 後篇のれいのネタバレレビュー・内容・結末

あゝ、荒野 後篇(2017年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

「あゝ、荒野」が邦画の歴史に残る素晴らしい作品であることを心から嬉しく思う。寺山修司の原作を東京オリンピック後に時代を置き換えて、よくここまで映像化したものだと驚きを禁じ得ない。何しろ、あとがきで寺山が「モダン・ジャズの手法によって書いたので、構成やコンストラクションとは程遠い全くの即興描写」と書いているのだから。伏線回収とか、自殺フェスが不要などの感想は残念ながら全くの的外れであり、構想段階でも議論されたであろうそれらの意見を反映した映画だったら寺山サイドからOKが出るはずがない。商業の常である様々な困難もあったはずなのに、こうして寺山文学を立派に現代に蘇らせて、俳優ファンも巻き込んで世紀の傑作を世に送り込んでくれた作り手には感謝の念がつきない。

原作では吃りを持つバリカン建二が主役で、兄と慕う新次と戦って壮絶な結末を迎える。映画では建二が新次に兄と呼ばれ、韓国と日本人のハーフであり、親が元自衛官で新次の自殺した父の上官であったという設定。東京オリンピック後の日本はテロが頻発し、徴兵制が現実化し、自殺者が増えている。数ヶ月前はまだ現実味のなかったこの設定が、今は確かな未来としてスクリーンから警鐘を鳴らす。全ての登場人物が日本という荒野で生きる意味を問い、四角いリングで戦う者達を見つめる。男女の性行為よりも強固で崇高な「繋がり」を追求するためにこの物語は5時間超という上映時間を要した。これは「必然」である。そして、そのリングを見つめる目に、私達観客も参加している。日本の未来と彼らの生き様と、自分の在り様を圧倒的熱量で身体に叩き込まれる。3回観て3回とも号泣であるのは、その沢山の情報量に感情が追いつかなくて飽和してしまうような感覚だと思っている。これは、スクリーンで観るべき映画。大作であるが故に上映館数を少なくしてオンライン配信と同時という新しい公開法で、沢山の人に観てもらえるけれど大きなスクリーンではないことが本当に残念。

主演は菅田将暉とヤン・イクチュン、彼ら以外には考えられない配役。二人の階級を合わせるために菅田くんは10キロ増量、ヤンさんは10キロ減量。菅田くんは激しい濡れ場の撮影から開始し、筋肉のない絞らない全裸を惜しげもなく晒し、ヤンさんは菅田くんを愛してそれ故に壮絶な死闘を繰り広げる役柄なので日本での撮影前に菅田くんの写真を見ながら彼の顔をスケッチし続けたそう(実際に彼のFacebookには撮影前にその画像がある)。トレーニングをしながら撮影を続け、徐々に完成されていくボクサーとしての身体。原作にはない新次の因縁のライバル役・山田裕貴も同様、打たれた時の隆起まで考えられたボクサー体型を数ヶ月で作り上げ、テクニックも身につけて実際に顔以外は本気で打ち合って壮絶なファイトシーンを実現させたのだのとか。彼らの過酷な努力は全てスクリーンから鮮烈な光と共に発せられる。血と汗を飛び散らせ、腫れ上がった顔で互いだけを見つめ殴り合う彼らのなんと美しいことか。

一方、彼らを取り巻く日本という国。この荒野で生きていく意味はあるのかと多くの人間が自らに問う。バリカン建二の父親は自らの苦悩を息子に虐待という形でぶつけ続ける。酒の為に金を毟り、殴り、支配する。この物語では親が子を捨て、子が親を捨て、彼らを再び結び付けることはしない。どこまで行っても平行線であり、寧ろ距離は拡げられていく。「人間が最後に罹る最も重い病気、希望という名の病気」。そう叫んで自殺する学生もまた、自分の子を捨てる親である。そしてこの物語には携帯電話というものがあまり出てこない。ほんの少し重要なシーンで出てくるけれど、それすらももう、この荒野で大切なもの・・・人と人との繋がりはインターネット上には無いと言っているように思える。

この物語の2大ファイトは新次×裕二戦、そして新次×バリカン戦。因縁の相手・裕二に向かって悲痛なまでに彼しか見ない新次に、ボクサーとして弱者であるが故に彼と繋がれないことを苦悩するバリカン。後篇でのその過程の、台詞では全く語られない心情が痛すぎるほど伝わってきて、観ていることが辛くて仕方ない。元々不良で、リングの上で裕二を殺す為にボクシングを始めた新次という危うい魅力の持ち主の無邪気な笑顔、孤独に生きてきた自分を屈託無く受け入れて寝食をともにした彼と「繋がる」為に強くなり戦いたいと彼を憎もうとするバリカンの悲痛な姿に手を差し伸べたいと思うのはきっと誰しもに訪れる感情。

物語で手を差し伸べるのは、不動産会社の二代目として生まれ、幼い頃から病弱で強くなりたいと願ってきた石井(川口覚)。スパーリングでバリカンの強さの本質・・・それはハンデを克服して上に昇り詰める強さ・・・を見い出し、実績のあるボクシングジムに彼を移籍させ、自らのマンションに住まわせ、結果的にバリカンの願いである新次と繋がる手段である対戦を実現させる。彼の役所は重苦しい後篇の清涼剤でもある。葬儀が金になるとの冷酷なオーナーであるとの登場から、徐々にそのか細い四肢から強さへの憧れを露わにし、物腰の柔らかさや言葉尻、バリカンを応援する笑顔から彼のバリカンへの感情が単なる友情でないことを示唆させる。いわゆるパトロンでバリカン建二を育てるこの役柄が決して下品でなく温かなものであるのは一重に川口覚の表現力によるものである。

その二代目が尋常ならざる試合であることを感じ取ったラストファイト。彼の表情が不安を煽り、今まで笑顔で応援していた新次を取り巻く人たちの表情からも目を離せない。互いを憎み合い殴り合う、それを制した者が勝者となるボクシング。彼らの闘いは壮絶を極め、醜くしかし美しく彼らの顔面が腫れ上がっていく。その終盤で、二代目が、そして新次のジムのオーナーであり戦う二人を見守ってきた宮木が咄嗟に取る行動。倫理と、反倫理。思えばこの映画には反倫理な行為を諌めるというエピソードは無い。誰もが欠点を持つ人間で、それらを受け入れて生きている。その圧倒的な世界観に理由も分からず共感して囚われる観客が多いことに、荒野で生きる一人として救われる思い。

個人的にはこのように歴史に名を残すであろう大傑作に最も好きな俳優である川口覚が大きな役で出演していることが幸せで仕方ない。大きなスクリーンで沢山観られる彼の表情、ゴングよりも響く彼のエールの声、クライマックスでのリング上での彼の姿、悲痛な叫び。。その瞬間瞬間に、ああこの人を好きで良かった、と勝手ながら彼を好きでいることが誇りにさえ思えた。

そして原作を読んだ人なら知っているはずのあの仰天のラストページ、あれはどうやら寺山修司がポカをしたらしいとのことなのだけど、映画はそれを逆手に取って恐ろしいほどの愛に満ちたラストにしてくれた。それは登場人物達への愛であり寺山修司への愛であり、この物語を愛しく思うはずである観客への愛である。ここは流石に書けないので割愛。最初に観たときと2回目に観たときとで180度解釈が変わって幸せに満ちたとだけ書いておく。

映画の良さは、全部見て悲しくなってもまた最初からその「生」を観られるということ。これは「アレノ」「海辺の生と死」の越川道夫監督の言葉。どんなに辛く、その後の登場人物達を案じようと、ブルーレイを再生すれば元気で無邪気にじゃれ合う新次とバリカンに会える。これから何回もまた観るこの映画を、私は心の最も大切な場所に置かざるを得ない。こんなに素晴らしい作品に出会わせてくれた作り手の皆様に感謝。感動を共有できる観客の皆様にも、感謝。

追記:
生前の寺山修司さんと深い親交のあった写真家の森山大道さんのトークショーにて「もし寺山さんがこの映画を観たら何と言うと思いますか」と質問したら、その返事は「俺が新次をやる(演じる)って言うに決まってるじゃんかよ」でした笑
れい

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