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アナと雪の女王2のimurimuriのレビュー・感想・評価

アナと雪の女王2(2019年製作の映画)
3.2
やっつけで作ってんのか?と疑いたくなるほどの酷い出来にびびってる。

アナ雪関連の制作背景とか特集番組とか色々見てるけど、あの人数とあの大規模な体制でなぜあの脚本にゴーサインが出たのか不思議でならない。

富野由悠季や宮崎駿が所謂「観客に不親切(あまり登場人物などの言葉で劇中の意味などを語らない)な監督」と言われているのが可愛いとさえ思えるレベルで、何もかもが唐突すぎて、心の中で何度「いやちょっとまて」と言ったかわからない。
あと、人物に重さが感じられないっていうのも嫌度が高い。宮崎駿とかトップアニメーターのアニメがどれだけ人間の観察力と表現力が高かったのかがよくわかる。アナ雪のアニメーター達も呼吸法の研修とかして人間の動きにリアリティが出るようにしてたらしいけど、まあ残念なレベルにとどまっている。今なんかパルクールの動画どこでも観れるのに、端から端への飛び移りのジャンプの描写とか酷すぎない?

以下、ネタバレしながらストーリーのおかしなポイントを書いていきます。

まず、結局両親が死んだこととエルサの力の関係があったのかどうかわからない。結局かーちゃんは何者だったの?五番目の精霊がエルサだったんなら、エルサ生まれる前は精霊どこにいたの?どんな存在だったの?どうやって村の連中の織物になるほどに語り継がれてたの?

精霊がエルサに対してガチギレしてる理由もマジでわからないし、なぜ水の馬手懐けられた?なにか成長に関わるターニングポイントがあったならステキなシーンになったろうに、マジで何もなかったもんな。手綱つけてもしばらく暴れてたし。あの暴れ馬ほんと謎。

あと、ダム決壊の水になぜあのタイミングのエルサ復活で城にエルサ間に合った?世界の広さというか、場所の遠さがイマイチわからない。はるばる(少なくとも2日か3日)旅してきた距離ちゃうの?しかも、ダムの水そのままにしても位置的に城が壊れるだけで街に実害ないやんけ。現に水止めたあと、水位上がってる描写なかったし。なんなんあれ

あと村でクリストフがプロポーズのために村のはずれで準備してたときにアナが「クリストフは?」って聞いて「どこかに馬連れて行っちゃったよ」って言葉だけで「じゃあ私たちも次の目的地に行きましょう」って行っちゃう神経もわからないし、プロポーズ準備完了のところに村長現れてアナはってクリストフ達が聞いて「もう行ってしまった、かなり遠くまでもう行ってる」って一言言われてスヴェンに乗ってすぐ追うでもなくしょんぼりソング(しかもギャグパート)くそ尺長く取ってそのシーン終わりというクソみたいな扱い。しかも映画ラストの部分でアナが「置いて行ってごめんなさい」とクリストフに言ってるセリフが一言だけ挿入されてるが、アナは先に行かれてしまったという認識であって、彼を置いて行ったと思ってなかったはず。だからセリフがおかしいわけね。もしカメラ映ってない場所で2人が真相を語り合う場面があったのだとしても、だとしたらその場面のその台詞チョイスは単純に物事をわかりにくくさせているという意味で不親切だし、2人の仲直りを示す言葉としては相応しくない。

あと結局五番目の精霊の言い伝えはなんだったの?村に語り継がれてるってことは代々いたってことだろ?エルサの前任は誰だったの?
そもそも五番目の精霊がエルサという人間として生まれた理由はなんだったの?アナがテキトーぶっこいて言ってた「いいことをしたご褒美」ってことが公式見解なの?だとしたらがっかりもいいところやでほんまに。


近年久しく「登場人物の愚かな行動」でイライラするアニメって見てなかったんだけど、この作品はそれを地で行く作品。キャラクターたちの彼ららしさを全肯定するのはいいんだけど、その目的のために旅途上の愚行を挟む必要あるのか疑問。

それと何と言っても冒頭が酷い。エルサが持ち前の根暗っぽさを出してて、いきなり幻聴が聞こえてるぽい描写が挟まれてるんだけど、あの「んーんー んーんー」みたいなどっかの民族が家畜操るときの発声法らしいんだけど、それが主題歌にもデフォで入っていて、宣伝でも当然それが音楽として流れてたんだけど、だからその「んーんー んーんー」がエルサに聞こえてた幻聴だったって判定できないのよ。つまり、そのエルサの幻聴聞こえてる場面で鑑賞者が聞いている「んーんー んーんー」が、BGMの音なのか、エルサの聴いている幻聴なのかが極めて判断しづらいわけ。実際だから突然エルサが歌い出したときびびったし、え、エルサ未知の旅にそんな出たかったん?前作からわりと暗い(最も容易な比較対象となるアナに比べると一層根暗な)印象だったから、そんな理由でうじうじしてるとは全く思えなくて、とにかく全てが唐突だったのね。この冒頭を肯定する人には金輪際ジブリ版ゲド戦記のアレンが父ちゃん刺したシーンを理由がわからないわ〜って批判する権利ないと思う。

とにかく今回の映画も、日本のアニメでやり尽くされてることで真新しさはなかったし、フェミニズム的なメッセージ性がどうこうってよくいうけど、これはプリンセス映画やってきたディズニーがこういう方向に舵きりしたことがエラいポイントなのであって、フェミニズム的なメッセージ性が含意された健全な作品や、女性が主体的に生き生きと活躍するアニメというのは既にそこら中に転がっているわけで、そういう名作を通ってきてない人達にこの作品のそのエラさが受けていることは何となくあーそっかそっかうんうんまあ仕方ないかっていう気分になる。

あと使い捨てキャラが使い捨てキャラだってわかりすぎるのが悲しいんだよね。あの森の民族の男と女、唯一民族の中で名前名乗ったから何か物語に大きく絡むんやろなぁと期待していたら、女のキャラのほうは縫い物しながら第五の精霊のことちらっと教えてくれただけ、男のキャラの方はプロポーズの手伝い(それも結局空振りの)をしただけで、友情育むでもなく終わったことが悲しい。特に女のキャラのほうは第五の精霊がいるって台詞言わせるためだけに登場させた感強くて、その人となりとかが全く伝わってこなくて、一人一人を生きた歴史のある個人として描こうというよりも「はいこのキャラはこのセリフでエルサに第五の精霊の存在ほのめかすって役割ねはいはい次このキャラはーー」的なチェックリスト式の使い捨て感が伝わってきてしまったのほんと残念だった。

唯一よかった点は、能力を持った者はその能力を存分に発揮する人生を望むだろうということ、そしてそれを肯定したことやね。エルサがあの大自然の中の森に留まったのは、超能力持つ自分らしくその超能力を使いまくって暮らしたいという当然の欲求が満足された形なわけで、そういう超能力あるいは魔力所持の全肯定で終わる作品て珍しいので、それを世界のディズニーがこのご時世に正しくやってくれたのはよかったと思う。
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