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ボヘミアン・ラプソディのkissenger800のレビュー・感想・評価

ボヘミアン・ラプソディ(2018年製作の映画)
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地上波放映だそうなので、絶対なんか言いたくなるに決まっている自分をなだめるため、かつて社内のイントラブログに自分の部下向けに書いた文章を上げておきます。空腹で焼肉屋に連れていったらどこまで食うか分からない若者にはまずハンバーガーを食わせておけ、みたいなライフハック(=ひとびとの感動に水をさすようなことを自分が言いそうな時は、事前に長文のオキモチを貼っておけ。の意)

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見る前からうっすら耳にしてはいたんですけど、監督が最終仕上げを前に職場放擲でスタジオからクビになっただけのことはあって、クイーンという英国ロックバンドを扱った作品なのにまあ彼らの歴史についての描写が滅茶苦茶で。
それなのに何回も泣いてしまうのはどういうことだ。そこまでクイーン好きなわけでもないのに。老化か。老化による涙腺の崩壊か。

映画では取り上げられませんでしたが「Teo Torriatte」という日本人通訳への感謝の気持ちで作ったとされる楽曲があります(サビがまるっと日本語)。
1976年発表ってことは俺が小3か。もちろん洋楽なんか聞いてない年齢なので、後年、この歌詞どこかで絶対知ってるけど……はッ。ってなったエピソードを披露させてくれ。

2学期終業式で転任する女の先生が、お別れの挨拶でしゃべり出したのが-先生はみんなのことを忘れません。たとえ離れ離れになっても、夜、空を見上げれば同じ月が輝いています。同じ風が吹いています。咲き誇る花は知っています、先生の心を暖かくしてくれるのはあなたたちだけでした……嗚咽&号泣。
昭和50年代の近畿地方のニュータウンで、クイーンの(「手をとりあって」の)歌詞を引用して泣く小学校の先生がいました、って実話です。

体育館の空気とか、ぽかーんとした自分含む児童の顔とか、鮮明に思い出すな。という昔話で老人が何を言いたかったのかというと……俺が洋楽を聴き出したのは中2(=1982年)で、この映画がクライマックスに置く1985年7月はまさに毎日が音楽と共にあった時代。だからエピソードの扱いが雑だと瞬時に分かる、ってそうそう、それが言いたかった(一瞬見失いかけた)。なんせこちとら8歳でクイーンの詞を突然朗読されてる身だから。
で、雑だ雑だと思いつつも、ハリウッドの映画評がだいたい「クイーンの曲を大音量で聴けたから許す(しぶしぶ)」みたいな寛容モードなのと同じで、俺もまあそっち派なのよ。
何故最終的には許してしまえるのか、それはやっぱりクイーンの音楽に与えられた喜びの代償としては無視できるほどの瑕疵って思えるから。なんですかね。
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何度か触れている「史実とちがう」、最も気になるのは「見るひとに感動をもたらすため」という大義名分を盾に、時系列を動かしたところなんですよねえ。
簡素化された世界が「ドラマチックに見える」のはあたりまえで、人生はもっとこう、夾雑物の中を這いずり回るものじゃないですか。
映画のタイトルになっている曲だって、40年近く聴いてきてるからこれ以外の完成形があるとは思えませんけど、今の基準で考えりゃブライアンのギターは全体で数十秒カットしても成立しそうな気もするじゃん?
でも、必要な要素だけで構成して、たとえばいきなりビスミッラーで始まったとして、原曲と同じ感動を生めるとも思えないじゃん?
(じゃんじゃんうるさいな)
つまり作品としては、分かりやすさを優先することで何かを失っているんですよね……というようなことを、あらためて考えるのでした。
年とると話が長え。
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