まりぃくりすてぃ

ボヘミアン・ラプソディのまりぃくりすてぃのレビュー・感想・評価

ボヘミアン・ラプソディ(2018年製作の映画)
1.0
映画として下手っぴでつまんない上に、クイーンの本質を(そして表層さえも)まったく理解してない者どもが作った不良品。故人が化けて出るよ。その者どもは、手っとり早くフレディ・クルーガーにでも殺られちゃえ(笑)!
[母と娘で観に行って、怒りのレビュー]

そもそも、たかが映画のくせに最高芸術団クイーン(あるいはフレディ・マーキュリー個人)をたった2時間15分で捉えきれると企てる自体が地獄行き(←私を道づれにしないでね 笑)。せめてアマデウスのロング版(3時間)程度の尺は用意しなさい!!
そして、そもそも、米国が製作してる自体がトンチンカン。米はボヘミアンラプソディという曲をリアルタイムであんま受け入れなかった国であり、何とかしてその米で成功したくて米向けっぽいウィーウィルロックユーとウィーアーザチャンピオンズをその後に作ってそれでも70年代末までは1位を取れなかった(プレスリー声の真似までしてやっと初めて1位を取った)のがクイーン。そんなクイーンを、特に苦闘の初期に支えぬいたのは、本国英国の少数のファンと日本の多数の少女たちだったというのはこれはクイーン史を語る上でスルーしちゃいけない事実なのだ。
そもそも米国は、あの20世紀最高の作曲家ブライアン・ウィルソンの渾身の『ペットサウンズ』を受け入れずブライアンを発狂に追い込んだんであり、逆にペットサウンズをリアルタイムで受け入れた世界唯一の国が英国だった。だから『ペットサウンズ』という題の映画を作る資格があるとしたらそれは英国。
そういう過去を思うとなおさら、米国は『ボヘミアンラプソディ』という題の映画の製作なんてする資格がないのだ。『愛という名の欲望』ならいいけど。英国は何やってる? エリザベスⅡ世が泣いてるよ。
74年(ブライアンが肝炎で死にかける)と75年(フレディが喉を痛める。以後フレディはデビュー期の美声を二度と披露できなくなる)に前座扱いの全米ツアーにいずれも敗退し、すっかり米国がトラウマの地になっちゃった意気消沈クイーンを、歴史的大歓迎によって精神的に救ったのは日本のクイーンファン(主にミュージックライフという雑誌を読んでた少女たち)だったのだ!!!(まだ生まれる前の私だけど、一緒にエヘン!)
米国がこの映画を作ったことは、70年代の日本そして80年代の南米諸国による熱狂的歓迎という大事な史実を(米国民にとって関心外だという理由で)乱暴にスルーしてるばかりでなく、フレディの両親がペルシャ人(ササン朝ペルシャ現イランから、インドへの流入民)であるというこれまた重大な要素を恣意的にスルーするという弊害を生んでる。
知らない人が多すぎるから書いとくけど、ロックをふくむ欧米ポピュラー音楽の音の根幹を成すギターとピアノは、さかのぼればともにペルシャで生まれた楽器だよ。特にギターは、ペルシャのセ・タール(三つの弦という意味)が東のインドでシタールになり、さらに西の欧州へ渡ってギターになった。極論になっちゃうけど、ペルシャ文化への敬意を抜きにして西洋音楽は語れないの。それにフレディのエキゾチック風貌と宗教観はパキスタン人じゃなくイラン人の範囲内にある。米国が「イラン」なんて言葉を聞きたくないっていう気持ちは理解できるし私自身イランはけっして好きな国じゃないけど、それでも、フレディの血が“中東のどっか”じゃなく100%ペルシャ人のものであるという事実はもっと明確に語られなきゃだめ。事実から逃げるな。

さて、この映画はクイーンの本質を語れてない。ツボを押さえた上で駆け足するんなら許せるが、やみくもに跳び跳びする。髪形や曲の制作順(制作経緯)など事実をねじ曲げてる部分も中盤以降多い。
そもそも、ロジャー役とフレディ役が実物よりもはるかに醜い。貴公子的ビジュアルは彼らクイーンの必須要素。物真似以外に大した演技してないんだから、もっとルックスがそっくりな俳優を連れてくるべき。ジョン役とブライアン役は多少似てた。だが、プレイ中に右手の指を一度も舐めないジョンなど考えられないし、ハイポジで弾きまくるブライアンの左手の長い指々の美しさしなやかさにこそファンは見ほれるもの(←手俳優による吹き替えでいいからここんとこちゃんと撮るべき)。だから全員、失格。
同時代やそれ以前のロックバンドの多くと一線を画してた「徹底的に高かった知性」がこの映画からは全然伝わってこない。どこにでも転がってるようなただのバンドサクセス物語だ。クイーンの唯一無二性がここにはなさすぎる。

クイーンが成功(本国での/そして世界的な)を勝ち得るまでの青春期の、スルーしちゃいけない要素として「ブライアンが暖炉の廃材で手作りしたギター(いわゆるレッドスペシャル)と、ジョンが組み立てた特製アンプ」「クイーンにはリーダーはいない。あえていえば(労組なんかにたとえれば)ジョンが書記長、ブライアンとフレディとロジャーはそれぞれ副委員長。統率者としての委員長など一度も存在しなかった」「クイーンはシングル用の曲など一度も作ったことがない。すべてアルバムを最良の出来にするために作り、完成後に『どれをシングルカットするか』を激論することは多々あったが、けっしてレコーディング時点で『今回は誰々が主役』なんて意識は持たなかった」「ロイ・トーマス・ベイカーというプロデューサーの貢献」「悪徳マネージャーのジャック・ネルソンにバンドがメチャクチャにされかけた」「英国メディアや評論家たちに最初から罵倒されつづけ、ボヘミアンラプソディの成功までは本当に本国のファンと日本の熱狂的ファン以外に心の支えがなかった」「最後に加入した最年少のジョン・ディーコンは、温厚で口数は少ないが経理をふくむマネージャー代行となってからは常にバンドを管理していてメンバーたちは彼を『ボス』と呼び、誰もジョンに逆らえなかった。まちがってもジョンが脇役などという事実はない」「メンバー間の対立はさまざまな構図で勃発し、けっして“孤立フレディvsほかの三名”なんて図式が定まることはなかった。ソロワークに最初に熱中したのはロジャーだし、ブライアンもソロを頑張ってた」「70年代にはバンド内に本質的対立はなかった。音楽的迷走とバンド内混乱はほとんど80年以降の話だ」──────そういうことをちゃんと押さえてないから、何が言いたいのかよくわからないメチャメチャな台本になる。
バイセクシャルの苦悩、ぐらいしか言いたいことがなかったみたいに見えた。
台本書いた者がまず能力低い。最初の、フレディがスマイルの二人と出会って自己紹介し合うところとか、まるで小学生向け漫画みたいな説明台詞。ダサすぎる。ドラマとしても、「私、妊娠してるの」の言い出し方とか雨の中でずぶ濡れで友愛を語るところとか、邦画のキラキラ凡作もビックリするような稚拙な場面設定だ。唯一、ラブオブマイライフの楽曲をフレディのプライベート(メアリーとの溶け合えなさ)に強く結びつけたのだけは面白めだった。
ライヴエイドに参加する気構えも、結局「自分ら」のことばっかりでアフリカ難民のことなんてこれっぽっちも思ってなかったってことをバラしすぎ。アフリカを利用だけするな。

観てよかったと思ったのは、AIDSをフレディが告白する場面でブライアンとジョンがとうとう実物そっくりになってたこと(確実に数秒間、本物を本物として見てる気が確かにした)。ラストのステージングは、まあまあだなと思ったけど、エンドロールで本物たちの真にイケてるドントストップミーナウが出てきたもんだから、それまで2時間変なゲテモノにつきあったという事実がバレちゃった。

最後に、一番言いたいことだけど、そしてそれは私がほんの何才なのかとかいつからクイーンの音楽に触れたのかとかと全然関係なく一人の「ちゃんとした耳を持ってる者」としての意見だけど、、、、クイーンの特にフレディ・マーキュリーの音楽の本質は、「華麗/耽美/変化自在/複雑/繊細/天才/過剰」。ジョンはポップの王道で、ブライアンは誠実で温かく硬直的なぐらいに手堅くも“静と動の奏で分け”が結局豪快で、ロジャーはロックでファンキー(のちにちょっとだけポップ)なのだが、フレディはけっしてポップとかそういうのじゃなく一番短くいえば「狂気」を感じさせる華麗さ。これは本当に本当に彼(ら)の本質であり、70年代からしっかりクイーンを支えたリスナーの多くがじつは82年頃までには離れ去ったらしい。華麗さと凄味が薄まっちゃったから。80年を境にファンが数年がかりでごっそり入れ替わり(去っても時々は戻る人が多かったそうだけど)、それと南米など全世界的に増えていった新ファンのおかげもあり、数的にはどんどんどんどんクイーンが成功の度を重ねていったといえるんだろうが、『ボヘミアンラプソディ』という題で彼らを描こうとする限りにおいてはクイーンの魅力の本質は前期にあり。
そういうわけで、これは元々の私の持論だけど、「クイーンの(特にフレディの)最高曲は?」との問いには「クイーンⅡのブラックサイド」と即答するのが真のクイーンリテラシー。これは私の音楽観のすべてを懸けて断言できる。この世に「クイーンⅡのブラックサイド」(すなわち2ndアルバムのB面全曲)を超える凄い“一曲”など存在しないのだ。この映画は、そういう真理をガン無視してる以上、クイーン映画としては0点だ。(一般映画としてももちろん褒めどころなし。あえていえば、フレディの妹役がいかにもイラン人な感じがしてジャストフィット。)



参考までに、クイーンをよく知らない人のために、コアファンの耳で選んだ名曲ベスト10を、1位から順に。理由と作者名つき。
❶ クイーンⅡのブラックサイド・メドレー
この長い長い“一曲”こそが全世界のロックの頂点。メイン曲マーチオブザブラッククイーンの最大の山場でのロジャーとフレディとブライアン三者の順々ボーカルは、アビーロードB面の三人順々リードギターと並ぶロック史上最ドキドキタイム。全曲フレディ作
❷ 愛にすべてを  Somebody To Love
歌詞の悲痛さが全然伝わってこない(笑)という唯一の欠点を除くと、音楽的に完璧。わずか5分間の中にクイーンの全魅力が詰まっていて、入門編としてきわめて能率が良い。その前年から声が濁り始めたフレディの、結果的には最も雄々しく上質なロックボイスが響きわたってる。フレディ作
❸ 去りがたき家  Leaving Home Aint Easy
クイーン史上最もビートルズマジックを感じさせる。もちろんザ・ビートルズは絶対の善だからね、クラシックでモーツァルトとベートーヴェンがそうであるように。下手な映画100本分以上に映画的でドラマティックな、知る人ぞ知る名曲。ブライアン作
❹ マイベストフレンド
クイーンポップの原点にして頂点。聴き心地がとにかく良い。ジョン作 
❺ セブンデイズ
クイーン史上最もメロディーが美しい曲。(ちなみに、美しさの2位はラブオブマイライフ。)ジョン作
❻ うちひしがれて  If You Cant Beat Them
クイーン史上最もカッコいい曲。ストーンズの一番人気曲JJFに匹敵。ジョン作
❼ ロングアウェイ
クイーン史上最も少女少年時代への郷愁を甘く優しく誘ってくれる温かな曲。ブライアン作
❽ ボヘミアンラプソディ
クイーン史上最も歌詞が面白い。スカラムーシュにビスミラだ! ただし、アルバム中にはもっと長い「予言者の歌」の大熱唱があるからじつはこれのインパクト最大じゃないし、形式美を守りすぎた結果としてクイーンⅡブラックサイドのマーチオブザブラッククイーンよりあきらかに劣るのが難点。あくまでもコンセプトアルバムの中の一片として味わいたい。フレディ作
❾ ウィーウィルロックユーと伝説のチャンピオン(これはメドレーとして扱われるのが正しい)
クイーン史上最も「嫌おうとしても嫌えない」曲。私としては全然好きじゃないのに、この歌がどっかから流れてくると動けなくなっちゃう。ブライアンとフレディ作。
❿ プリンシスオブザユニヴァース
音楽的にグチャグチャになりすぎてフレディの声もどんどん汚くなっていった退屈な後期において、初期のすばらしさに回帰してるスティルロッキング曲。フレディ作


◆追記◆
クイーンⅡのブラックサイドのマーチオブザブラッククイーンは、ボヘミアンと似ててボヘミアンを凌駕する真の最高曲なのだが、ステージ上で完璧に魅力的には再現できないのが弱み。ジョンがそもそも歌わないせいでほかの三人が常に負担大きすぎる上、ブライアンもまたステージ上ではいつもだいたいコーラスの戦力になれず、それとギターオーケストレーションなしで行くとやっぱスカスカになりがちだから。
あくまでも「ステージ上」という括りつきながら、マーチオブザブラッククイーンを超える名曲は、クイーン、ビートルズと並立する英国三大バンドの一つザ・フーによる「クイック・ワン」だ。フーの強みは、四人全員が全力で器用に難なくボーカル込みで一曲に参加するため、何のムダもなくたった四人で多くの曲を完全再現(どころかスタジオ録音のよりもすばらしい出来でプレイ)できちゃう点だ。あまり知られてないけど、ロックに初めてオペラの概念を持ち込んだのはフーだから、フーこそがサージェントペパーとともにオペラ座の生みの親だし、一曲の中にドラマ的起伏を設けまくって成功した例も彼らの「クイック・ワン」が世界初なんだよ。そういうわけで、「クイック・ワン」(ただしステージ上で披露されたバージョンに限る。特に視覚的パフォーマンスつきでロックンロールサーカスの!)こそが真の世界一曲? だが、メロディーでそれをいとも簡単に上回るのは似た始まり方をする「ボヘミアンラプソディ」、しかしボヘミアンはマーチオブザブラッククイーンに負ける。ということで、ロック史上最高曲は?との問いには「ボヘミアン<ブラッククイーン<クイックワン<ボヘミアン<ブラッククイーン<クイックワン<ボヘミアン<ブラック……」が永久機関的に循環せざるをえないんだ。と思う。
あながちこれはお茶目な空論ではない。と思う。ザ・フーはあの“世界最強ロックバンド”ストーンズをロックンロールサーカスで(クイックワンをやって)粉砕し、あの“宇宙最強”ジミ・ヘンをもモンタレーで撃破してる。その一方、クイーンは英国民自身が“ビートルズを超えたバンド”として実質的に認めてる。つまり、ロックの決勝戦はザ・フーとクイーンによって争われるのだ。オアシスとかそれ以降の者たちなんて論外。ともちろん思う。
音楽も映画も文学も20世紀で終わってる。と思う時もある。