海老

ボヘミアン・ラプソディの海老のレビュー・感想・評価

ボヘミアン・ラプソディ(2018年製作の映画)
4.5
音楽で揺さぶられる感覚は音楽でしか説明できない。言葉に変えるのは難しい。
それでも書いてみる。魂に満ちた作品には魂をぶつけるのが礼儀と思うし、この興奮を、隣り合う人たちと肩を組んで共に叫びたいから。

時刻は19時、金曜の夜に賑わう歌舞伎町を横切れば見えてくる、新宿TOHOシネマズ。本日の上映会は「胸アツ応援上映」と称され、声援や手拍子など普段の上映では遠慮願われる行為が許容される。

実は本作の鑑賞は今日で二度目。
普段、僕は新宿の、ましてや応援上映に行く事はまずありません。
理由は2つ。
1つ目の理由は、単に静かに観るのが好きだから。
しかし今作に限っては、熱狂するライブを大人しく座って見る事に、初回鑑賞でもどかしさをも覚えてしまった。振り上げそうな拳を押さえつける必要も無いという。だからこその応援上映。

2つ目の理由は後ほど。
まずは映画の話を。


高揚するこちらの期待を出迎えるのは、20世紀フォックスを讃えるギターサウンドのファンファーレ。ディストーションの痺れるような歪みが、観客席を右から左へと奮い立たせるように撫ぜていく。
一拍おいて、客席から巻き起こる歓迎の拍手の渦。そう、今日は僕たちも参加者だ。
観客を演奏に参加させるとブライアンは言った。演奏で空に穴を開けてやるとフレディは言った。だったら僕らは足踏みで映画館に穴を開けてやろう。

幕開けから、彼らの音楽のように破天荒で、時に軽快なストーリーと、それを彩る名曲に興奮が止まらない。栄光も、愛も、悲壮も全てがドラマティック。
圧倒的なパフォーマンスを魅せるダイナミックな表舞台に対比するような孤独感。僅かな表情から忍び寄る不穏のサインや、サングラスに反射する苦悩の姿は繊細で驚く。
音楽以外に居場所がないと言っていた彼がどれだけ追い詰められているかを想像してしまうから、大衆の前や仲間たちの前でとる排他的な態度も、あまりに無理な虚勢に見えて胸が痛む。

その幾多の鬱積を超え、映画冒頭シーンのリフレインから繋がるライブ・エイド。
こんなにも全身が粟立つ感覚を知らない。
クライマックスという言葉がこれほど合致するシーンを知らない。割れんばかりの拍手と声援が劇場内にエコーする。気が付けば、ライブ会場の客が作るウェーブと歓声の雰囲気に、呑まれているような感覚だった。

…何より、僕は自分がこの場に居られるのが信じられない。

新宿の映画館にまず訪れない理由の2つ目。

僕は多分、軽度のパニック障害を抱えています。医者にそう断言はされませんでしたが、例えば満員電車の混雑した空間に居ると、信じられない心拍数増加と、死を意識する激しい恐怖感に支配されます。近付く、想像するだけで症状は出始める。それは残念な事に大好きな映画でも同じで、過去に数回、新宿の映画館に挑戦した時は、いずれも発作が起きて早々の途中退場を余儀なくされました。彼の闘った病気に比べればチリみたいなものでしょうが、僕にとっては深刻。

その僕が、しっかりと最後まで彼らを見届けられた。彼らの奏でた半生が、僕のちっぽけな病気を叩き伏せてくれたと思わずにはいられない。
無論、治ったわけでも何でもない事は分かっているけれど、自らの病気を告白した上で、「自分が何者かは自分が決める」と前を見据えるフレディに、物凄く勇気を得て、自分勝手な涙が溢れてきた。


愛を求め、愛を歌うフレディマーキュリー。
自分が何者かを確信した彼の事を、紛れもなく、多くの人が愛した。
その彼を包みこむ15億のコーラス。

"We are the champions"

あの瞬間、確かに僕はその内の一人だった。
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