iskn

ボヘミアン・ラプソディのisknのレビュー・感想・評価

ボヘミアン・ラプソディ(2018年製作の映画)
4.5
クイーンというバンドは当然知っていたが、ボーカルが亡くなったのは私が生まれる前であり、特に強い思い入れは無かった。そんな私であったから本作を楽しめるか心配になりながら椅子に座ったが、生きることの素晴らしさ、そして音楽の素晴らしさが、考えうる最上の映像表現と高度に発達した現代の音響技術を用いて描かれる映画を前にして、そんなことは杞憂だった。そして、音楽を作り出す者を映画で表現するという魔法がしっかりと結びついた作品でもあった。

作品はメインボーカル・フレディ・マーキュリーの半生を中心として描かれる。バンドを結成し、音楽づくりに明け暮れ、友達と騒いだり彼女と愛を語らう様はさながら青春ムービーだが、酒や心配になる程のヘビースモーク、ドラッグを匂わせたり、彼のセクシャリティなどの描写がしっかり映し出されるのに驚く。ヒッピー文化が色濃く残り、またスーパースターともなれば今以上に遊びは派手だったのではないかと推測されるが、彼のことをほとんど知らない(流石にバイセクシャルであることは知っていたが)私からしたら、複雑な苦悩を持つ中で成功を収め、また這い上がって行く姿には自然と没入してしまった。なぜ彼の映画が作られたのか全くわかっていなかったが、なるほど映画にして語るのに事足りない人物であり、納得がいく。

絶好調であるクイーンだったが、度が過ぎた遊びやメンバー間での利権を巡る不満が噴出していく中で、フレディ個人でのデビューの話が持ちかかる。彼がメンバーにひどい言葉を浴びせてしまうことを決定打としてクイーンは解散の危機に追いやられてしまう。
さらに遊びにふけ、孤独を強めていくフレディに救いをくれる元恋人のメアリーが感動的だ。自分の周りにいて、時に叱責をくれる”家族“こそ大切にしなくてはならないのだという言葉。インターネット時代以降「繋がり」は映画における一つのテーマだが、ネットを通じて誰とでも簡単に繋がることができるのに、人との関わりがより気薄になっている矛盾を生きる私たちに、強く響く。

最後の21分間の(とは言うものの映画のシーンは13分で、実際のライブエイドのライブが21分であったらしい)ライブシーンは圧倒的だが、強く心が打たれるのは、その前の入場シーンだ。映画冒頭でも同じものが映し出されるのだが、そこに少しの仕掛けがある。冒頭ではスローモーションの映像でフレディが一人しか描かれず、彼が一人でステージに向かって行く、そんな印象を与える一方で、終盤の同じシーンではそこにメンバーがしっかりと映されている。互いの目をしっかりと見つめ合い入場していく四人の姿。紆余曲折を経て彼らが“家族”になったことの証明であり、ライブ前の高鳴りと今までの彼らの歩みを重ねた時強い感動を覚えずにいられなかった。
同じ描写、しかしメンバーを入れるという少しの違いを入れることで、観客は冒頭からそこに至るまでの過程に再度想いを巡らせる。その表現が有効に機能し、目頭が熱くなる。二時間ちょっとの映画を通じて、フレディ自信の生き方を直視してきた者として、私たちもあたかもバンドのメンバーの一人として、最後のライブに向かっていくような、そんな錯覚に陥りながら物語は大団円を迎えて行く。

ほぼ全員がそうするように、私も彼らの曲を再度聴いてみる。音楽とはその内容もさることながら、誰が歌っているかということによってその力強さが変わるものだ。今、私の耳で振動するその音楽は力強い高鳴りを持って届く。「彼らの音楽を唯一超える彼らの物語」という予告映像の文言は決して嘘ではないことに気づかされる。今後も彼らの生き様は確かな形を持って私たちに響いていくのだろう。映画によって彼らの音楽が、私たちに(少なくとも私に)特別のものにしてくれたこと。それは映画の魔法なのだと、そう強く感じた。
iskn

iskn