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リュミエール!の小のレビュー・感想・評価

リュミエール!(2016年製作の映画)
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「映画のはじまり」を見る映画。1895年12月、パリで世界で初めて有料映画が上映された。『工場の出口』など1本の長さが約50秒の作品を10本。撮影したのは「映画の父」と称されるリュミエール兄弟。演出、撮影技術などは現在の映画の原点と言われるらしい。映画はリュミエール兄弟が1895年から1905年の10年間に製作した1422本の短編作品から108本の作品を選んで再構成し、4Kデジタルによる修復を施したもの。

面白いかどうかと言えば、正直、大して面白くはない。本作を鑑賞した動機は、何事にもはじまりには引かれるものがあるという好奇心もあるけれど、一番は映画監督の塩田明彦氏の『映画術』という本で紹介されていたから。

<映画とは、「なにより動きの創造である」>という塩田監督は次のように述べている。<映画が生まれ落ちた瞬間から映画だった最大の理由は、上映尺が1分だったからです。どういうことか? つまり、世界を1分以内で捉えなければならなかった、ということです。><どの1分を切り取るかという選択、その意志によって、それは「映像」じゃなくて、「映画」になるんです。>

<1分であることによって、始まりがあって終わりがある。どこで始めて、どこで終わるのかを決める。こうして産み落とされた映像を、ここでは「ショット」と名付けようと思います。><つまりショットとは、何よりもまず被写体の発見であって、その動きの発見です。その動きを切り取る作り手の意志が、スクリーン上にひとつの出来事を描き出します。>

わずか1分足らずの映像であっても、そこには<その動きを切り取る作り手の意志が>ある。だから、その意志は何なのかを読み取ることが映画をよく鑑賞することである、と。108本の短編映画には確かに意志が感じられる。だから、この映画を見ることは、映画鑑賞の訓練になるのかもしれない。

上映後、パンフレットを購入した。見ると、今一番好きな映画監督の濱口竜介監督の文章がA3サイズ1枚分のスペースに載っていた。嬉しい。やっぱり面白いことが書いてあったけれど、自分的に気になったのが次の部分。

<リュミエール兄弟の映画を見ることの真の快楽は、こうした予見(引用者注:ある場所で起こるであろう反復や回転)がまったく機能しなくなる瞬間を目にすることにある。><ここ(引用者注:10秒ごとに物事が起き、緊張した顔で群集が走る。画面の外で不思議なことが起こっているらしいショット)に克明に記録されているのは、ある「撮り逃し」の感覚である。(略)リュミエール兄弟によって「この映像には映っていない時空」が初めて生まれたのだ。区切られることによって初めて感じられた無限の広がり、それこそを世界と呼び直してもいい。>

2人の映画監督の言葉を読んで、ちょっと考えると、こんなことが思い浮かぶ。「映画とは世界を時間と空間で区切ったもの」ではないか、と。そして「描かれない時間と空間を見たいと欲望するもの」ではないか、と。

濱口監督によれば、<あるショットで撮り逃したはずのフレーム外の時空を、別のショットで仮構して、後に続ける。それによって疑似的に「ひとつのつながりの時空」を観客に与えることが可能になる。>

つまりショットをつなげることで、いまあるような映画となり、<自身の欲望を適度に解消し、なおかつ刺激し続けてくれるそのシステムに彼らは喜んで対価を支払うようになった。>

ところが、CGなど技術の進歩により<もはや「見ることができない」ものは何もないような気さえする。リュミエール兄弟の映画にあった絶頂が遅延され続けることの、発狂せんばかりの快楽=「もぞもぞ」は絶滅しつつある。>

こうした中で、映画制作者は「もぞもぞ」を観客に引き起こすことに心血を注ぎ続けるのかもしれないし、観客は「もぞもぞ」を感じたいから、映画を見続けるのかもしれない。

もっとも、本作で「もぞもぞ」するのは濱口監督のような映画の達人のような人くらいではないかと「うとうと」した自分はヒガミ半分で思う次第。あ、これ点数は…、自分は付けられないかな。
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