シゲーニョ

ヴェノムのシゲーニョのレビュー・感想・評価

ヴェノム(2018年製作の映画)
3.0
なんか気分が悪いな…口の中がネバネバするし、
食い散らかしたゴミがなぜかキッチンの床にいっぱい落ちているし…。
と、思って歯でも磨きながら、鏡を覗いてみると…
「白目の変な黒いモン」が自分の顔に重なっているのに驚き、ギャァ〜!!となって後ろにフッ飛ぶ場面。
この不意を衝いた、ドリフのコントのようなシーンだけでも、☆印5つを与えたいぐらいだ(笑)。

本作「ヴェノム(18年)」がプリプロダクションの頃、マーベル・スタジオの総帥ケヴィン・ファイギから「マーベル・シネマティック・ユニバース(以下MCU)と繋げるプランはない」という発言があったので、トムホ版スパイダーマンとは関係ないハナシになるのは分かっていたし、今回のシンビオートはスパイダーマンを経由していないため「胸のエンブレムが無い」「ウェブを出さない」等々、トレーラーなど小出しにされる映像に微妙な残念感が漂っていたので、原作コミック及びライミ版シリーズが好きな自分としては、劇場での鑑賞は早々と見送り、レンタルやテレビ放送・配信も遠慮がちになっていた。

しかし、先日、ヒマがてらにTVをザッピングしていたら、偶然、二か国語版が放送されるのを知り、晩酌しながら軽い気持ちで拝見することに…。

残念ながらCM挿入によりカットされ、正味90分強となっていたが、この「二か国語版」であることが吉と出たと思う。

なぜなら、主人公エディ・ブロックを吹き替えた諏訪部順一の声が、自分の抱くトム・ハーディ=「無骨」というイメージをだいぶ和らげてくれたから。

トムハと聞いて、すぐに思い浮かぶのは「ブロンソン(08年)」の英国史上最凶の囚人や「ロックンローラ(08年)」のゲイのチンピラ、そして「レヴェナント : 蘇えりし者(15年)」の冷酷無情なハンターといった“狂犬キャラ”なので、本作序盤の職&恋人を失い“ヘタレ”となったトムハを、もしも原音で聴いていたら、たぶん違和感アリアリで、物語に没入することなど出来なかったと思う。

馴染みの雑貨屋で強盗に出くわしても、見て見ぬ振りをする腰抜けぶり。
アパートの向かいの部屋でステレオの音がガンガンうるさく鳴っても、文句のひとつも言いに行けない。
そして、レストランの水槽につかり、生きたロブスターにかじりつく奇行ぶりといった一連のシーンは、諏訪部氏の低く品のある声でなかったら、いつ凶暴なトムハに覚醒するのかヒヤヒヤして、自分的には1ミリも成立しなかった(笑)。

だからこそ、先に述べた鏡に映った姿に驚愕する小物感丸出しのリアクションに、抱腹絶倒と相成った訳である。

本作「ヴェノム 」を一言で表すなら、「異世界から来たバディもの」だろうか。

水と油の二人が嫌々ながらタッグを組んで、巨大な敵に立ち向かう刑事ものの黄金パターンのような展開と、その相棒が自分の体の一部で、しかも会話しながら戦うというのは、多くの方々が指摘しているように、岩明均原作の漫画「寄生獣(90年〜95年)」に似ている。

しかし、「寄生獣」の寄生生物ミギーが、宿主の脳を奪えないと判るや共生することを選択し、人間社会やその歴史を図鑑で調べる学習意欲旺盛だったのに対し、ヴェノムは粗暴で常に「何か食わせろ!」とわめくばかり。

なので、自分的にはアニメ版「ど根性ガエル(72年〜74年)」に近い感じに思えてしまった。

最初は「お前はオレの車だ!」と高飛車な態度だったヴェノムが、実のところ、無職のエディを励ます熱いハートの持ち主で、恋のアドバイスをするところなど含め、次第に男気のある「ピョン吉」の姿がダブってきてしまう。

特に本作の中盤、追っ手からバイクに乗って逃げようとするエディを、ヴェノムが伸びる触手で強引に進路変更したり、車を引っ張り追跡者の進路を妨害したりするカーチェイスは、ピョン吉が自身の張り付くTシャツごと、うわぁ〜と叫び続けるヒロシを引っ張っる、離れようにも離れられない両者の姿・関係…アニメの名場面を彷彿とさせる。
(ちなみに、近所のマブダチの中学生は、「仮面ライダー電王(07年)」のモモタロスのようだと強く主張していたが、「仮面ライダーX(74年)」以降全く知らない自分としては、何をいっているのかさっぱり分からなかった…笑)

さて、本作の元ネタは、ヴェノムがマーベル・コミック史上初めて主役の座を獲得した全6話のシリーズ「ヴェノム : リーサル・プロテクター(93年)」。
訳あってNYからサンフランシスコに移住し、ヒーロー活動に挑戦したものの、シンビオートを使って核戦争の到来に備えようとするライフ財団に捕まり、ヴェノムの遺伝子から人工的に培養された5人の子供(!!)が作られてしまい、彼らに立ち向かうという物語である。

つまり、本作の敵ボスであるライオットは、原作コミックではなんと、ヴェノムの子供だったのだ。
コミック中、エディが、説得すれば味方になると思ったのか「オレの子供たち!一緒に不正行為を正そう!」と言った途端、間髪入れずにライオットたちにボコられる場面はマジで最高なので、是非機会があればご一読頂きたいと思う。

ライオットは原作でも、全身の各所を鉄槌や鋭い刃物に変形できる戦闘能力を持っているので、やはり「寄生獣」との類似性、その影響下にあるように感じられるが、個人的には偶然の一致か、才能ある作家同士のシンクロニシティだと勝手ながら思っている。

この原作コミックは、ヴェノムがヴィランからアンチヒーロー路線へと転向を始めた記念すべき作品であり、「ヴェノム 」映画化第1弾のベースとなったのも納得できよう。

また、本作「ヴェノム」は原作及び映画版スパイダーマンファンへの目配せも抜かりない。

まず冒頭、ライフ財団のシャトルが墜落した際、唯一生き残った宇宙飛行士が「ジェイムソン」という名前。
これはライミ版&MCU版「スパイダーマン」に登場した、デイリー・ビューグルの鬼編集長J.ジョナ・ジェイムソンの息子ジョン・ジェイムソンと思わせる内輪ギャグである…。
ライミ版「スパイダーマン2(04年)」ではMJの婚約相手として登場し、原作コミックの「アメイジング・スパイダーマン 124号 (73年)」では、宇宙飛行士として月面探索に出かけた際に持ち帰った不思議な石の影響で、満月の夜にマンウルフに変身する敵ヴィランでもある。

次にオープニングクレジット後、エディがNYから故郷サンフランシスコに戻った理由が、恋人アンとの会話中の台詞「ディリー・ビューグルと揉めた」という言葉で推し測られるが、これは原作コミック「アメイジング・スパイダーマン300号 (88年)」の、スパイダーマンが真犯人を捕まえたことで、自分が書いた連続殺人犯のスクープ記事が誤報となってしまい、面目と職を失ってしまうエピソードを思い起こさせる。
[注 : ライミ版「スパイダーマン3(07年)」で、トファー・グレイス演じるエディが、でっち上げた加工写真をピーターにバラさられ、業界を追放になるのも、上記原作のエピソードを元にしている]

そして、勤め先のTV局のスポンサーでもあるドレイクの怒りを買うハメになったエディが、職を失い自堕落な生活を送る部屋の隅に、ウェイトリフティングの器具が置かれているシーン。
これも、ディリー・ビューグルをクビになったエディがスパイダーマンへの憎悪を解消しようと、日夜筋トレに励んだ結果、シュワルツェネッガー並のマッチョボディ(320キロの重さを持ち上げられるほど!)になる原作コミックのオマージュだろう。

まぁ、こういったところをイチイチ気にしながら製作したソニー・ピクチャーズの尽力には本当に頭が下がるし、「ゾンビランド(09年)」「ピザボーイ 史上最凶のご注文!(11年)」など、主人公がヒドい状況に追い込まれる映画ばかり撮ってきたルーベン・フライシャーを監督に抜擢した彗眼ぶりには脱帽するしかない。

だが…繰り返しになるが、本作「ヴェノム」では権利の都合上、スパイダーマンが登場できない。
シンビオートとエディがスパイダーマンへの遺恨という共通項で結ばれているという設定が削られた結果、ヴェノムはエディを「宿主として適合している」という理由・動機だけで選ぶ。

しかし、何故エディだけ寄生されても半永久的に適合できるのか、その理由が本作で終ぞ明かされることは無いし、劇中、ヴェノムがシンビオートの上司ライオットにハブられたと愚痴を零し、財団によって無職&独り身にされたエディに対して、自分と同類の“負け犬”だと思い友情を感じたというのも、本来冷酷で人間を餌にするシンビオートの変容、その理由としては些か弱く感じてしまう。

二人がどのようにして心を通じ合い、相棒として認め合っていったのか…それが上手く描かれていないのである。

ネット上の本作の粗筋紹介やファンの方々のレビューでは、エディのジャーナリストとしての「正義感」にほだされて、ヴェノムが罪なき人々を守るために悪と戦うことを決意したと書かれていることが多いが、ヴェノム自身に善と悪の区別がついているのか、本作をラストまで観てもハッキリと分からないし、エディとヴェノムが互いに成長し信頼しあった結果、手に入れたはずの「清廉さ・純な心」が、本作中、見当たらないのは問題だと思う。

寄る辺ない者たちがお互いの中に居場所を見つけ、その維持のためだけに戦うストーリーは、ヒロイックファンタジーが持つ高潔さやカタルシスが欠けていると思わざるを得ない。

なので、本作「ヴェノム」は少々、残念な作品となってしまった…。

最後に…

先日、マブダチの中学生から「ヴェノム : レット・ゼア・ビー・カーネイジ(21年)」(=未見)には、MCUに繋がるシーンがあると聞いて、「スパイダーマン : ノー・ウェイ・ホーム(21年)」内の不自然に思えた、唐突感あるワンシーンの理由に、ようやく合点がいったのである。

しかしながら、主にアメコミ映画の流行となっている「他作とのクロスオーバー」は、何とかならないものだろうか。
同一シリーズの「前作を観てないと新作のストーリーに上手くついていけない」という理由ならば納得できるが、スピンオフやTVドラマ、配信など全てを網羅・チェックしないと、新作映画を「100%楽しめない」というのは、観る側から時間とお金を搾取しすぎだと思うのは自分だけだろうか。

この悪しき慣習の起源は、自分の中では「スター・ウォーズ/クローンの攻撃(02年)」と「シスの復讐(05年)」の間にカートゥーンネットワーク及びセルDVDでしか観られなかったアニメ「クローン大戦(03年〜05年)」だと思われる。
このアニメを観てないと、何故「シスの復讐」冒頭でパルパティーンがグリーヴァス将軍に捕まっていたのか全く意味が分からない。

なので、これまでMCU全作見続けてきた自分だが、「ワンダヴィジョン」を観てなきゃ話が分からないドクター・ストレンジの新作を劇場まで足を運ぶべきか、現在、真剣に悩んでしまっているのである(笑)。