chiakihayashi

BPM ビート・パー・ミニットのchiakihayashiのネタバレレビュー・内容・結末

4.7

このレビューはネタバレを含みます

 映画ならではの学びを得たと呼べる作品。リクツで理解するより前にココロの奥深くがさざ波が立つように揺さぶられて、その分やわらかくなったアタマがゆっくりと考え続け、それが次第にカラダに刻み込まれていったような、そんな学び。

 舞台は1990年代初頭のパリ。エイズ・アクティビストの団体ACT UP Parisの活動を、自身もメンバーだった監督が映画化。1987年にニューヨークで発足したACT UPの正式名称はThe AIDs Coalition to Unleash Power(力を解き放つためのエイズ連合)だが、そのままでも「派手にやれ」といった意味があり、直接行動で知られていた。

 高校に闖入して生徒たちに「キミをまもってくれる」とコンドームを配るのはともかく、例えば製薬会社に押し寄せて(ロイター社のカメラマンが同行)、オフィスで赤い塗料を詰めた風船爆弾を投げつけるといった行動には、日本ではドン引きした観客も少なからずいたようだ。だが、第二次大戦中に青年男女がレジスタンスに加わってゲリラ戦を展開した歴史に理を認めるならば、ACT UPのエイズ患者やHIV感染者にとっては〝見えない戦争〟が進行しているも同然であり、彼らは迫り来る死の恐怖を見据えながら行動に立ち上がらざるを得なかったのだ。その行動は基本的に非暴力であり(血糊を模した風船爆弾だって自宅のバスルームでの手作り)、当然、幾多の戦争の歴史を経て作り上げられた市民社会の原理原則はきちんと踏まえられていて、実際に公的機関が仲介する製薬会社との話し合いのテーブルにもついている。

 そうした活動の土台には週に一度開かれるミーティングでの率直で白熱した議論があった。時に感情的になる発言者がいても、進行役がミーティングのルールに則って意見を捌いていく。リアクションすべきなのは互いの怒りや悲しみといった感情ではなく、そのような感情を引き起こす事態、その背景にある構造に対してなのだという方向性が共有されている場であることに、私は目を瞠る思いだった(日本だとこうはいかないな〜というのが、古い世代である私の思い込みにすぎなければよいのだけれど)。

 まるでドキュメンタリーを見ているようだという感想が多いのも道理で、監督は肌の色も文化的な背景もさまざまな中学生が集まる教室の1年間を当事者の〝演技〟で再現した『パリ20区、僕たちのクラス』(ローラン・カンテ監督、2010)の脚本・編集を担当した人物(ACT UPのミーティングのさらなる土台は、「教室は、未来の市民を創る場所」[カンテ監督]というフランスの教育にあるのかも)。

 もう一点、特筆すべきなのは、運動の中心的メンバーの一人でやんちゃというかともすれば突出しがちなショーンと新人で堅実なナタンというカップルの愛の物語でもあること。東京国際レズビアン&ゲイ映画祭(現在はレインボー・リール東京)でも私はもっぱら女性監督の作品を見てきたので、ゲイ・カップルを描いた映画はあまり知らないのだが、この映画のセックス・シーンのリアリティと厳粛な美しさには静かな衝撃を受けた。ショーンはエイズを発症しており、彼のケアを引き受けるHIV陰性のナタン。弱って入院したショーンの病室で、ナタンが手を使って彼を射精に導くシーンもある。LGBTが主役の優れた作品を見て自身の性や愛についての意識が刷新されるという体験は映画というメディアならではないだろうか。

 ふたりの愛の行方を息を凝らして見つめているうちにあまりにもさりげなく描かれたので、後になってあらためてショックとともに考えさせられたのだが、おそらくふたりの間で約束されていたのだろう、ナタンがショーンの死の幇助を行うのである。いわゆる安楽死を認める議論には危険な陥穽が多すぎるのだけれど、この場合、彼らにとってはその行為は法も医療システムも、あるいはいかなる第三者的な倫理規範も関わりがないまさしくプライベートな選択としてあったのだろうと想う。

 かけがえのない恋人や仲間を失った悲哀を互いをいたわり合って受けとめた後、これまでも社会に見捨てられる恐怖や差別、無関心に対する怒りをACT UPに昇華させてきたように、彼/彼女たちは直接行動を起こすのである。
 
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