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女王陛下のお気に入りの63のネタバレレビュー・内容・結末

女王陛下のお気に入り(2018年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

 まず映像作品としての良さを語らなければいけない。役者、音楽、衣装、装置、構図。時代考証の点で弱くとも、映像作品として魅力がある。世界観への説得力がある。
 女中が何か作業をするだけでフェルメールの「牛乳を注ぐ女」の雰囲気が醸しだされる。自然光のようなはっきりした明暗の中で、質の良さそうなドレスが光を反射し、また吸収する。毎秒が絵画的な美しさを持っている。
 物語の明暗も衣装に象徴される。カツラと服が黒い与党、白い与党。銃猟で白い服を着たサラと黒い服を着たアビゲイルは、毒を盛られてから白いレースを纏うアビゲイルと黒いレースで目を覆うサラに反転する。
 劇中で行われる駆け引きがただの「ドロドロ」「女の争い」で片づけられない繊細な魅力を持つのは、ひとえに画の美しさ故だろう。女優たちの表情のうまさも含めて、耽美的な余韻があった。

 私はこの映画の主人公をアビゲイルだと勘違いしていた。というのも、これを欲の物語として落しこんだとき、アビゲイルただひとりが欲望を肥大させているからだ。
 マズローの提唱する有名な「欲求5階層説」(生理的欲求、安全への欲求、社会的欲求、尊厳欲求、自己実現欲求の順に欲求は発達する)にそって考えれば、初期のアビゲイルが抱いている欲求は「安全への欲求」そのものだ。娼婦館に売り飛ばされない日常。
 それはサラの侍女になった序盤である程度満たされる。それでもアビゲイルの欲望は止まらない。家庭に入り、サラに担保されない身の安全を求める。結婚のためならばサラにも毒を盛る。女王の唯一であることが彼女の生活を支える。政治にも介入し、アビゲイルが白といえば烏も白くなるような有様だ。彼女の欲求は、いつのまにか「安全への欲求」から「社会的欲求」にシフトしている。
 落ちぶれた貴族が再度の興隆を図るというテーマは珍しくない。それがここまで低い地点からはじまるのが珍しいだけである。
 しかし、主人公が女王ならば違う話が見えてくる。
 先ほどの段階に当てはめると、3人のうち女王ひとりが高次の「尊厳欲求」に苦しんでいる。そう思えば彼女の神経衰弱もよくわかる。誰も自分と同等の立場にいないために、真の意味で悩みを共有できていない。
 愛を求めながら愛を疑い、幾度も失望しながら、それでも縋らずにはいられない。「女王」という地位を憂いながらも、優位に立つことで愛を手放さないよう必死。アンの人間性はこのアンバランスさにある。
 アン女王がアビゲイルを取り立てたのは、彼女を優しいと感じたからであり、それは高次の欲求を満たしてくれるという期待に直結している。彼女らの性行為がエロティックじゃないのは快楽を目的にセックスしている人がひとりもいないからだ。ショーペンハウアー的性愛とでもいえば良いのか、アンは愛は性欲に根ざしていると感じているが、アビゲイルにとっては結婚と同じく便宜的なものだ。このズレはまさに悲劇で、アンも最後にはそれに気づく。気づくが故に「女王」に戻ってしまう(また彼女の愛に縋るとしても)。
 ラストシーン、アンとアビゲイルとウサギのオーバーラップは、アビゲイルがアンにとってウサギと同様の「お気に入り」であるだけでなく、アビゲイルがサラの「代用」でしかないことも示唆する。欲望の主導権はいつもアンが握っている。アビゲイルの欲望の恐ろしさを感じつつ、それすら自らの欲望のために飲み干してみせるのだ。
 この映画は、権謀術数のストーリーよりも欲望の機微を楽しむ作品だろう。

 章だっている構成は観やすかったが、アヒルレースやトマト投げのシーン、魚眼レンズの意図など謎は多く残っている。もう一度観ると新たな発見のありそうな映画だ。
 また、一番魅力を感じたサラにあまり踏みこめなかったことも悔しい。彼女が女王に抱いていたのは権力への愛か、個人への愛か。気づいたのはいつなのか。泣きながら手紙を火に焼べる場面を女王が見ていれば、と思う。アンが誰かと悩み・愛を共有できる可能性があったならば相手は彼女だったと気づけただろうに。
 最後に。ウサギが好きな人にはおすすめしません。