マティス

ザ・スクエア 思いやりの聖域のマティスのネタバレレビュー・内容・結末

3.0

このレビューはネタバレを含みます

 今度ある集まりで、この映画をテーマに語り合うというので観てみた。素直に受け止めればよいのだろうが、素直に受け止められない。この作品全体を包む正義の押しつけがましさに、いやらしさを感じてしまうのだ。

 この映画がテーマにしているのは、人を思いやるということ。人を信じることができるのか、他人が直面していることを自分のこととして受け止め、それを解決するために自分の行動が具体化できるのか。そんなことも併せて観る者に問いかけている。それらのことを一人の男が自分の受難を通して気づくという筋立てになっているのだが、一つ一つのエピソードが、思いつくままに羅列されているという印象だ。描き過ぎていると思う。ラストに向かっていくところ、スクエアな舞台で繰り広げられた子供のチアリーディングの競技会で、演技を失敗して落ち込む選手を、コーチが諭し、励ますシーンがある。主人公はそれを見て自分の過ちに気づき、覚醒するのだが、あまりに直截な演出に苦笑してしまった。何の深味もない。要らないシーンだと思う。暴言を発する高齢者のところも別に要らない。整理できていないから、だらだらした長尺の映画になってしまっている。

 この作品では子供に重要な役割を演じさせている。移民の黒髪の男の子は言うまでもないが、問いかけに疑いもせず、床に財布とスマホを置いたまま立ち去る娘、強く叱りつけた娘に対しては素直に謝れる主人公、先のチアリーディングのシーン。おそらく、子供は正しい、子供にはできるのに、大人にはできないのは何故?という含意があるのだろうが、安直で薄っぺらく思える。

 果たして、気づきがないから、他人を思いやれないのだろうか、優しくできないのだろうか。実は、気づいていてもできないところに人の弱さがあり、問題の本質があるのではないだろうか。弱さを肯定するわけではないが、私はこの主人公よりも、「沈黙 サイレンス」のキチジローの方に共感を覚える。

 困っている人がいれば、人はその人に手を差し伸べるべきだという正論に反論することはできない。この映画は正論を突きつけることによって、人を啓蒙したいということなのだろう。ほとんどの人間は未熟なのだから、もっと上の段階に進まないといけないというわけだ。

 そこへ導出する過程は強引だ。映画の中で新しい企画展の様子が出てくる。まず入口で、「あなたは人を信じるか、信じないか」を問う。信じると答えた者は、次の部屋で、「床に財布とスマホを置いたまま立ち去れ」という指示がある。多くの人はできない、主人公の娘はできる。人を信じると答えたあなたは、実は人を信じることができない未熟な人間だ、と指摘するという仕組みだ。対象を追い込んで考え方を改めさせるというのは、洗脳のよくあるステップだ。だが、人を信じるかどうかというのは、その人を知ってはじめてできることだと思う。「走れメロス」で人を信じることの大切さを知ったのは、メロスとセリヌンティウスが無二の親友だという関係だったからだ。この映画に盛り込まれたエピソードには、無理な設定があると感じる。

 私がひねくれているからそう感じるのだろうが、この映画の観点自体に上から目線のようなものを感じる。監督は、「フレンチアルプスで起きたこと」の監督なので、もともとそういう作風というか性向なんだろう。私が嫌なものを感じるのはこの監督ではなく、この作品をパルムドールに選ぶ人たちにだ。この嫌な感じは、欧米で起きたいわゆるポリコレ、ポリティカル・コレクトネスへの反発に似たもののように思える。

 折しも、この監督のスウェーデンでは、ノーベル文学賞を選定するアカデミーで醜聞が起きている。監督は慧眼なんだろう。