言葉がない、もしくはその対象を定めないまま発信される情報の不気味さ。
コミュニケーションにおいて、情報の発信者と受信者のやり取りを成立させるには、受け手側が「対象とする情報の認識やそれを得る手段を持っていること」が前提となる。
言語を用いたやり取りには言語を理解する能力が必要だし、難解な現代アートを理解しようとする場合には、その必要条件は「教養」と言えるだろう。
コミュニケーションの上では、共通認識として鍵となる素養が必要となるのだ。
素養がないままコミュニケーションを遂行した場合、そこに現れるのは「無理解」「排他」「疑念」「暴力」といった他者を圧倒的な外敵として客体化する不穏な現象だ。
映画内におけるマンションへのメモの投函による中傷も、社交パーティーにおけるモンキーマンの事件も、美術館の炎上狙いの広告騒動も圧倒的な他者(対象者)の不透明性が根本にあるのだ。
誰が誰のために向けて発したのか分からない音や文字や映像が不気味に彷徨う。
その混沌とした景観はどこかインターネットの世界を彷彿とさせる。
他者と意思疎通をするための素養とは何か、我々が社会活動を行う上で当然として扱っている教養とは何か、それを知らないまま生きる危うさも知ったような顔になる危うさもあるよう思えた。
しかし、だからこそ、その素養について他者と膝を突き合わせて探る必要があるとも取れるのではないだろうか。