ベルサイユ製麺

ザ・スクエア 思いやりの聖域のベルサイユ製麺のレビュー・感想・評価

4.1
美術館とかに展示を観に行って、写真なりドローイングなりの正面に立って、近づいてみたり遠のいてみたり…は皆様もされると思います。好みによるのか、それともか単に気のせいなのか、その作品が一番魅力的に観える距離があるように思うのです。(例えばベーコンならガラスに自分が写り込みそうになる瞬間、とか)
そんなして通ぶって悦に入る、明らかにエセな吾輩ですが、ベンチで休憩してる時などに他の鑑賞者が同じような事をしてるのを見ると「通ぶっちゃって」なんて、とんでもない事を思っちゃったりしますよ…。そして、同じ事をする吾輩の姿は側からどう見えているのだろう。

『ザ・スクエア 思いやりの聖域』
ああもう、恐ろしいほどに感想が定まらない。好き嫌いで言えばめっちゃくちゃ好きだし、でも多分誰にも勧めないし、とにかくカンヌらしい作品とも思うのだけど、これがパルムドールだと言われると、「⁇」ってなるよ。自分、全然この作品の事分かってないんじゃ無いのか?ここ10年位のパルムドールで一番取っ掛かりが見つけ難い。まだ『フレンチアルプスで起きた事』がうんと易しく思えますよ。このアブストラクトな物語は、例えば…
⚫︎こんな暴論はどうかしら→相対的な価値を見出し難い現代美術というカテゴリーの、キュレーターという仕事は、相当な自信家・エゴイストでないと務まらないのではないだろうか?
表面的には常識人の様に振る舞う主人公クリスティアンは、実は非常に利己的で偏見に満ちた人物である/あった。
同様にこの作品を最高賞に選出する審査員もその様な人物に相違あるまい。
作品から審査員、批評家という点を通して伸びるパースペクティブの中には当然我々観客がいて、思い上がった“ザ・スクエア”の中に我々は全て収まってしまっている/いまい、と努力出来る。
…なんちゃって。

全てのシーンが冷たくて的確。何も起こらない時ほどドキドキして、酷い事が起こってくれるとホッと一息。映画ならでは、傍観者ならではの感覚です。
劇中のさまざまなスケッチの断片は、別段一つに結びついたりはしなくて、強いて言えば(結果として)クリスティアンの最後の行動を促すように作用した…という感じなのかな。様々な視点・論点の有り様こそが主役、という作品に思えました。鑑賞中の感覚は一般的な劇映画よりも“モンティパイソン”に近い。

映画の核になる“宛先の無い手紙”を巡る一連の騒動の条りは、考えれば考えるほど良く出来ていますね。日常に似た事例が思い当たりすぎる。ここだけでもアスガー・ファルハディなら一本の映画にすると思います。例えばツイッターなんていつもコレで議論が回ってる気がするな。無意識が自意識を引っ掛けて、熱を帯びていく空洞の嵐。当事者も、きっかけの出来事も、とっくにそこには無い。…ホントよく出来てる。これは道徳の授業の例題にすべきだ。
タイトルはスクリーンは勿論ですけど、今なら否応無くPCのモニターやスマホの画面を想起してしまうし、全体としてSNSについてのお話って気もするなー。もうちょっと考えてみよう。

終盤の螺旋階段のシーン、一瞬で酔いました。自分の視線で登れば酔わないのだろうけど。

ここ数年、余裕が無くて美術館から足が遠のいていたけど、また行ってみようかな?取り敢えず松屋銀座のトムとジェリー展が気になる(←それは美術館?) 。あとは…秘宝館?