ルサチマ

夏の娘たち~ひめごと~のルサチマのレビュー・感想・評価

夏の娘たち~ひめごと~(2017年製作の映画)
5.0
2021年4月11日 @ポレポレ東中野

ポレポレ東中野のレイトショー再開企画〈傑作の夜〉にて上映。

作中最も重要な出来事を省略によってサスペンスを回避し、徹底したメロドラマとして見せる。そのような試みは堀禎一だからこそ成せる離れ業だ。

山へ戻ってきた男女が、三味線の音色に合わせて踊りを舞ったあと、二階部屋と一階を繋ぐ階段の前で立ち止まり、部屋を振り向いて「変な人」と呟く。ここから夏の娘たちの「ひめごと」は始まる。

男たちだけで「ひめごと」に興じることは一度も描かれないのに対し、女は男っ気なしの世界であらゆる「ひめごと」と戯れてみせる。

「ひめごと」とは性行為だけでなく、女同士で酒を吐くまで注ぎ交わして、下着で遊びまわる姿や、男との結婚や妊娠についての話を明かし合う空間のことだと言える。
そして、直美がヒロちゃんを「運命の人ではないと思う」と告白したその心情の変化こそが最大のこの映画の「ひめごと」として、隠蔽される。

この直美の言葉を本当に素直に受け取るべきか、もしくはヒロちゃんを思いやった上での言葉として受け止めるべきか、答えは宙吊りとされる。

説話的に、そして山に住まない我々現代人の感覚的には、彼らが本当の兄弟だと告白されたことが二人の仲を裂いたと考えることはできるだろうが、それは画面上の根拠として全く描かれてない。

二人が別れるのは予め決定された〈出来事〉であったからで、その前後に画面内で脈絡はない。川辺から逃れた直美の妹がひっそりと小屋で男とぎこちない性行為をした直後に、突如編集によって旅館へと場面転換し、再び川辺のシーンへと戻るので、観客は一体なにがあったのか察することが出来ずに戸惑う。

この映画で起こるもう一つの終盤最大の時間はヒロちゃんが首を吊ったことであり、しかしそれは単なる〈出来事〉というよりは、直美からの拒絶を受けての繋がりを引き受けたものであることは想像に易く、ヒロちゃんの行動そのものは決して直美がヒロちゃんをフッた理由のような「ひめごと」にはなり得ない。


決して恵まれた資金などないはずなのにこの雄大な空間設計とカットごとに変えてしまう大胆な音響設計は映画館以外で堪能することなんて不可能であるし、どんなに日本のインディペンデント系映画がもてはやされても、最期のプロダクションディレクターと言ってもいい堀禎一の職人技こそ支持されなければならない。


2020年3月27日

部屋の窓から見える夏の鬱々とした曇り空と緑の草木、そしてそよ風に吹かれる白いカーテンが画面に現れるファーストカットで、これは堀禎一の署名がついた作品であると確信できる。そんな監督は日本に堀禎一以外にいない。
全てのカットがこれしかないという絶妙なフレームによって適切なサイズ感で四角く切り取られ、葬儀の夜に次から次へと人々が画面に現れていくところなんか、この窮屈な田舎の世界の人間関係を一発で見せる。川辺で戯れるもう若くはない男女のだらしのない肉体と、川の音によって絶対的に映像のみならず声の音までが遠のいて聴こえさせる音の使い方。
西山真来が、階段を上るところのカット割、こんなに割るかってくらいしかし、それしかないという見事な編集で本当に凄い。死の印象は『憐』だし、夏の景色は『天竜区』だし、堀禎一の全てがこの一作に詰まる遺作感も泣けてくる。
徹底して最後まで一向に晴れやかにならない襖が閉まる終わりに打ちのめされる。

現代で小津安二郎『秋刀魚の味』をやるとするならば、この映画こそが一つの到達だ。


1回目 2017年7月 @ポレポレ東中野

言葉の美しさを感じる映画があるとしたら堀禎一による映画こそその最高峰だと思う。それは例え観客に聞こえないほど川の音がノイズとして響いたとしてもだ。
まるで水の流れや山そのものの木々の揺れまでもが言葉としての役割を果たしてくる。新たな音声の発見に立ち会っているような感覚を与えてくれたし、画面は古典映画を現代に甦らせるような雄大さがある。簡潔さと濃密さが成立するその語り方の凄さに、今はただ途方に暮れてしまう。凄まじく恐ろしい映画だ。
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