夢は世界を変える。ドン・キホーテは夢を信じる物語だ。
虚構は現実を凌駕する。過酷で飽き飽きした現実を生きる男と、虚構の世界を信じる男の物語。
ドン・キホーテといえば、風車を巨人やドラゴンという、虚構と思い込んで突撃する滑稽な男というイメージで、多くの人に知られている。
そして、テリー・ギリアムといえば、現実と虚構が入り混じったような、独特の世界観を持つ魅力的な作品が多い。
そして、本作は映画を撮った監督の物語でもあり、虚構の世界を信じる男の物語ということもあり、構想30年、頓挫9回もした、監督自身の経験ともリンクして、実に素晴らしい作品だ。
本作は、小説の主人公として生み出されたドン・キホーテの物語でもあり、ドン・キホーテのように現実と虚構が入り混じった遍歴物語でもあり、社会風刺的でもあり、哲学的でもあり、そしてコメディもありの、エンターテイメントという点で、非常に本質的な部分をおさえた映画化といえる。
魅力はやはり、テリー・ギリアムの世界観ともいえる、現実と虚構が入り混じっていくところだが、本作では現実から始まって、どんどん虚構になっていくというわけではなく、現実がどんどん虚構になったと思ったら、ふいに急に現実に戻されたり、かと思えば、現実では在り得ないような虚構の展開が起きて、気づいたら虚構の世界に入っているといった、現実と虚構が交互に、あるいは重なり合って、入れ代わり立ち代わりする展開や見せ方の流れが多様であり、超自然現象、幻覚、錯覚、あるいは能動的に、あるいは人によって現実か虚構かも違ってくるという、実に面白い入り混じり方をしている。
アダム・ドライバー演じる「現実を見る男」と、ジョナサン・プライス演じる「虚構を見る男」の、バディロードムービーでもあるため、現実の視点と虚構の視点が、初めから二つハッキリ用意され、それが相反したり、重なり合ったり、あるいは価値観が逆転してしまったりという、視点の虚構現実においても、虚構と現実が交わっていくところが魅力だ。
さらには、虚構の定義も曖昧で、それが妄想であったり、人為的な虚構の創造であったり、過去のエピソードであったり、様々な手を絡めて現実と虚構を曖昧にしてくるため、それぞれのシーンごとで、虚構と現実の定義づけの軸のようなものも、次々と移り変わり、どこから見るか、どう見るか、何を信じるか、あるいは信じないのかによって、何が虚構で何が現実化もどんどん変わってくる。まさに虚構現実のカオスのような作品だ。
この作品のドン・キホーテも、はじめは、現実の私達の視点から見て、イかれたクレイジーな人物として出てくるが、それが遍歴のうちにユニークで面白くなり、愛嬌を感じたり、ワクワクしたり、応援したくなったり、驚いて感動したり、そして、そのクレイジーさをいつしか信じたくなってしまい、羨ましくもなり、憧れともなってしまう。
しかし、それだけで終わらないのが、映画や物語というものだ。
本作の邦題は「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」だが、原題は「The Man Who Killed Don Quixote」で「ドン・キホーテを殺した男」。
「現実を生きる男」が、かつて若い頃に創造したドン・キホーテから十年が経って、「ドン・キホーテは生きている」という看板を見つけてから始まる物語のタイトルは「ドン・キホーテを殺した男」。
ドン・キホーテは、何故生きているのか?
ドン・キホーテを、殺した男とは誰なのか?
ドン・キホーテは、どうなってしまうのか?
「現実を生きる男」と「虚構を生きる男」にとって、はたしてドン・キホーテは、どういう存在なのか?
どこに生きているのか?殺されたらどうなってしまうのか?どこへいってしまうのか?
それこそが、本作の魅力であり、とても気になること。
あなたにとって、ドン・キホーテとは何なのかということだ。