垂直落下式サミング

おクジラさま ふたつの正義の物語の垂直落下式サミングのレビュー・感想・評価

4.9
最近は偏差値の低い作品の鑑賞が続きIQを減退させる日々が続いたので、ここらで一発グローバルな問題でも斬り損なってみようと思い映画館に足を運んだ。
捕鯨についての映画と言えば、当然ロックンロールな大傑作『ザ・コーヴ』が真っ先に思い浮かぶが、同じ捕鯨文化を題材として日本側の主張を取り上げた作品となれば、記者出身の監督が作った『ビハインド・ザ・コーヴ』というドキュメントもある。そんな捕鯨への認識を日本の視点からとらえた作品が2017年にもう一本公開された。それが、本作『おクジラ様』である。
“捕鯨の町”太地町にある日突然反捕鯨団体の活動家がやって来て、町民の生活は大きく変わってしまった。本作は視点を切り取るにあたって、可能な限り中立的な立ち位置を確保しており、自分がどちらの意見に傾倒するのかを試すイデオロギーのリトマス試験紙のような作品だ。

まず、筆者のスタンスをはっきりさせておくと、私は捕鯨問題が大好きだ。それというのは、この論争それ事態が好きなのであって、無類のクジラ好きで殺されると困るわけじゃないし、鯨肉が好きで食えなくなると困るわけでもない。誰かがクジラを2~3種いたずらに絶滅させても何とも思わないし、明日捕鯨が国際法で禁止されても何も文句はない。ですから、私個人としては捕鯨問題がどんな決着をみようと超どうでもいいのだけれど、人と人が延々と解り合おうとせず不毛な足の引っ張りあいを持続させている衝突の様子が大好物で、それが間抜けにみえて仕方ない。どちらにも明確な道理のない対立がおきていて、互いに譲り合ったりして妥協点を探る気がなく、歩幅を同じくする糸口すら見えてこない文化摩擦に淀む論争の渦中を安全圏から眺めるのがたまらなく好きなのである。私の考え方は中立か?道徳的か?と言ったら違うのだろうけど、どちらの主張が正しいとか間違ってるかは一旦おいといて、捕鯨問題はディベートの題材としてゲーム性・エンターテイメント性ともに高いコンテンツであることは間違いない。

本作では、太地を取り巻く問題を俯瞰した目線で見下ろすと同時に、アカデミックな見地からの指摘を示し、単なるカウンターではなく知的な論理付けをしている。環境や文化というものの流動性、ダイナミックさを定義・相対化し、これを図式化し非常に分かり易く示した上で、それぞれの論主に筋が通っているのが偉い。取り上げる疑問(Question)に対して、考察の後に回答(Answer)すべきものとして、非常によく考えられた順番で構築されていたように思う。
それでいて小難しい映画かと言えばそうではなく、地元の漁師、警察、海保、環境活動家、右翼団体、そして中立であろうと努める在日アメリカ人ジャーナリストと、様々な正義の在り方が入り乱れる入江(コーヴ)に生じるヒューマニズムに時折クスリとさせられる。優れたドキュメンタリー映画って笑えるんですよね。普通の人々のごく自然なユーモアが、撮しとられる殺伐とした現実に華を添えられていた。特に、右翼のリーダーが面白い人で、シーシェパードたちとフランクに話したり、わりかし些細な違法行為には寛容だったりするのがおかしい。お互いに警察や公安からマークされている要注意人物同士であるという一体感からくる友情なのか…。「オイ!道開けろゴルァ!」では笑いがおこった。

反捕鯨派の主張によると、「クジラは人間に近い生き物だから殺してはならない」そうだが、実はそれに根拠はない。鯨の脳が人間に近いのではないかと言ったのは脳科学者のジョン・C・リリー博士という人だが、それはあくまで仮説であって何かの実験をもとに照明・実証され裏付けられたものではないのだし、そもそもなぜ「人に近い」ことを基準に置くのかというのは些か疑問であるわけで、その思想の根幹には人間中心主義的傲慢さが見え隠れする。
だが、捕鯨を肯定する日本側の主義主張が正しいかといえばそうでもなく、すべてのものに神があって命を奪ったものに感謝があり供養をするんだというアニミズムの危うさにも切り込んでいることに好感をもった。「いただきます」とか「ごちそうさまでした」などと言いますけれど、命を奪うことに感謝してたら偉いんすか?ってハナシだ。それはそれで傲慢な思想だと思うんですよ。監督が海外での取材経験が豊富だからか、「伝統ですから」とか「文化ですから」という免罪符のもとに議論を発展させようとしない日本社会の異質さに焦点が絞られており、そういう考え方はアナタ方が相手にしているものには通用しないのですよと、時おり冷たい視点を見せてくれる。
それにしても、なんで屠殺の様子は頑なに撮らせないのだろう。『ビハインド・ザ・コーヴ』でも思ったが、イルカの命を断つ瞬間はどうしても撮影許可が降りないようだ。漁師さんの言い分は、「生き物を殺すところは他所様に見せるものじゃない」ということだが、食の倫理を口にするなら『いのちのたべかた』とか『ある精肉店のはなし』を観てくださいよ。水銀の問題もうやむやだ。客観的に見て、このご時世にここまで実態が不透明になっている食品産業は怪しいぞって言われても仕方ない。まして、太地町は否応もなく世界的な論争の舞台となってしまったのだから、すべてを包み隠さず説明できなければ社会的な信用は得られないだろう。これはフェロー諸島の対応を見習うべき。こうなってしまったからにはクリーンさで勝負していくしかない。

本作の一番いいところは、日本の一般的な消費者の視点で「俺ら普段そんなに鯨肉食べないし、別に美味しくないじゃん」という意見を撮していること。日本人の多くは捕鯨に賛成しているが、年間一人当たりハム1切れ程しか消費しないと言うんだから、そんな伝統はもう既に死につつあるとも言える。
ぶっちゃけ、お酒を飲まない人は酒造を規制する法律が出来ても関係ないし、非喫煙者はタバコの規制が強まろうが関係ない。鯨だって同じだ。世の中にある面倒なことについて、興味も関心もないのなら「関係ないね!」と言い続けるのは悪いことじゃないと思うし、無関心でいられるその立場を手放したくないと考えるのは自然なことだろう。
この映画の感想をこういう結論で締めるのは不謹慎なのかもしれないが、この問題はどちらかが折れるまで解決なんかしないし、出来ないし、興味ない。漁についても需要があるなら続ければ良いし、人気がなくて売れないんなら淘汰されるべき産業だったってことだろう。
私は鯨肉を食べないし、美味しいと思わないし、それで生活してもいないので、この問題で誰がどんな不利益を被っていようが関係ないね。この映画を観終えたとしても、日本の食鯨文化がどんな結末をむかえようが知ったことじゃねえと、私のような人間はこういう無配慮なことを言えてしまうし、それを誰かに無分別だと咎められてもかまわないと思っている。
結局のところ、私が捕鯨問題に興味があるのはただの野次馬根性でしかなく、それ以上の理由は見つけられなかった。隣町が燃えている様子を高台から眺めるのは楽しい。それだけである。ただ、私はそれが物事を考える上でのひとつの正しさの在り方だと信じているし、これを見世物とすることでこういった不謹慎な題材の映画が成立しているのもまた事実であることは揺るがない。
そんなわけで、殺し合わない程度に憎みあっているぶんには問題ないと思うので、アンタらで食うも食わないも好きに決めてくれればいいよ。