カリカリ亭ガリガリ

意味なし人生ちゃん、宇宙(そら)へのカリカリ亭ガリガリのレビュー・感想・評価

5.0
映画は"いつ"映画になっているのか、という拗れた問いに対してどう答えるべきか。映画館の暗闇で光/影となって映写されている時か。ソフト化されてテレビの液晶画面で再生されている時か。スマートフォンで動画再生中に新着LINEの通知が来た時か。
そのどれもが確かに「映画」ではあるものの、自分の暴論として提示したいのは「映画を思い出している時」もまた「映画」である、というものです。

簡単に言えば「あの映画、あのシーンが良かったなあ〜。あ、あのクライマックスは泣けたなあ〜。でもあの俳優は大根だったなあ〜」という、鑑賞した作品について思考している時間。その時間こそ、あなたにとって「映画」は、確実にあなたの「映画」として、あなたと関係が出来ると思うのです。

そもそも、一度観た映画の全てのショットを憶えている人間なんているのだろうか?ことほど左様に、それは不可能なことだと言ってよいはずです(淀川長治先生を除いては)。
映画を思い出すという行為は、そういった不可能性への挑戦でもあり、同時に、極めて容易い再構築/脱構築の作業であり、また言うなれば解体でもあります。
各々が目撃した1秒24コマの写真の羅列に対して、確かに「見た」ということを認識し、何を「感じた」かを認識すること。その行為の根元には、絶対的に総てを憶えられない映画というメディアに対して、「忘れたくない」という意思があるのではないかと思えてならないのです。

本作品は、上記のような暴論を踏まえて、明確に「思い出すこと」についての映画として機能しています。
厳密には「思い返すこと」と明記しても問題はありません。

作品内では、誰かが誰かを思い出している際に、時間も空間も超越して、総てが同時存在しているという描かれ方が成されています。現在に過去が"在る"し、過去を遡ることで更に"在る"過去を想起したりするわけです。
また、過去の果てにやがて訪れる、あるいは訪れた"死"を想起させる描写もあります。

このような感覚は、我々の脳の働きと大変似ていますし、記憶のノンリニアな方向性を、小道具や特定の台詞キッカケで繋いでいく編集方法で秀逸に表現してみせています(因みに、監督も明言していましたが、もっとも近い編集は『TAKESHIS'』の編集方法で、アレもタケシの脳内記憶巡り映画でした)。

また、そういった「思い出す/思い返す」という行為自体が映し出す特定の"光景"があったとして、失礼ながら、基本的に文学はそういったものを表現することが出来ません(近付くことが出来ても、です)。
最も容易く"光景"を表現できるのは、音楽だと思います。
音楽には、死者の言葉に耳を傾けるという側面が強く、また、単位時間内での情報の量が文学よりもはるかに多層的です。

本作品がMOOSIC LAB 2017のコンペティションとして製作された事実は、極めて興味深いことです。「思い出すこと/思い返すこと」における尊さと残酷さ、その強度を高めているのは紛れもなく白波多カミン氏による音楽だからです。
あらゆる意味で、本作品の始まり、中心、着地点には、彼女による"音楽"が鳴っています。
彼女の詩は、決して映像の説話的役割ではなく、あくまで音楽として確立しています。にも関わらず、この音楽は"誰の/何のことを唄った歌だろう"と、我々はこの曲が流れ始めた瞬間、思い出し、思い返すことが止められないのです。

つまり本作品には、音楽でしか捉えられない非文学的な感覚と、記憶の作用に酷似したノンリニアな映画文法を密接させ、相互作用/相互補完しつつ、音楽×映画という、その融合が見事に成し遂げられた感動があるのです。

(余談ながら&恐縮ながら&独断と偏見ですが、澁谷監督は"映画を映画で、文学を文学で、音楽を音楽で、演劇を演劇でやってはならない"作家だと感じています。単に、客観的に、その方が面白いと感じるからです。文学は音楽でやってほしいし、音楽は映画でやってほしい、みたいな。そういった感覚が証明されたのが本作品だと考えます。文学、と言うか詩、ポエジーは割とオブセッションかと思うので、個人的にはそれらを落とし込んだ"映画"を勝手気ままに期待します)

あなたがこの映画を思い出している瞬間の総てが、『意味なし人生ちゃん、宇宙へ』という作品が完成されている/存在している時間であり、あなたが思い出すことをやめた時、まるで今朝見た夢を忘れてしまうかのように、この映画は"再び"消失するのです。

だからこそ、思い出す。
思い出すこととは、消えた何かを、忘れた何かをもう一度自分の中に存在させることのできる、唯一の祈りなのではないでしょうか。

思い出す時、映像が先か、音楽が先か。映像が聴こえ、音楽が見えてくる。きっと、どちらも同じ速度で。

(※当該作品末端スタッフによるカンソウでした。もう一年前か。懐かしいな。と思い返す。そのたびに、この映画が在る)