ナガノヤスユ記

希望のかなたのナガノヤスユ記のレビュー・感想・評価

希望のかなた(2017年製作の映画)
4.2
カウリスマキ映画で純粋にコメディ的なフックとして機能するのは、市井の人々の人間性(社会性)がふとした瞬間に失われる部分だと思っていて、下手な監督がそれで振り切っちゃうと、ユーモアとは呼べない悪辣なドタバタ劇に成り果ててしまうものを、本当にギリギリの、もっともミニマルな形で人間愛を回復させる、あるいは維持するあたりがカウリスマキの絶妙なバランス感覚であり真骨頂なのだと思っている。
だからカウリスマキ映画においては、キャラクターが一度裸にされる、すなわち人間性を失う過程が何かしらの形であって、それをある種監督は自身の背徳的な役割として自覚し引き受けていると思う。事実、この喪失→回復のプロットは度々踏襲されてきた。

だけど、『ル・アーブルの靴磨き』から今作に至るまで、明らかにそれまでのカウリスマキとは異なる部分が見えてきてるような。そこには、自分が映画の中で奪うまでもなく、現実に人間性を奪われている人々が沢山いて、差し伸べる手さえ躊躇う今の世界はあまりにもクソで、コメディにさえならない、という事実への明確な怒りが感じられる。
『希望のかなた』で特に驚いたのはやはり、主人公カーリドが受ける入国審査の場面で、彼が自らの過去を詳細に語ってみせるあのシーンだ。これまでのカウリスマキ映画で、キャラクターの過去があんなに明け透けに語られたことはかつてないし、映画が映画外の現実とあんなに接近してしまったこともなかった。カウリスマキのリアルともファンタジーとも言いがたい中性的な作風を考えれば、あれはかなり危険な場面となりえたはずだ。結果として成功したかはともかくとして、それくらい抜き差しならない、カウリスマキの切迫した姿勢を感じずにはいられないじゃないか。

とはいえそこはカウリスマキ。自ら傾向映画と評してみたところで、単なるドキュメントや現状告発ものとはほど遠い。裏賭博で勝ちまくり一夜にして大金を手にした男が乗り出すレストラン経営。今までの監督作では、事業や仕事を軌道に乗せることはひとつのハッピーエンドの定形たりえた(『浮き雲』)が、今作ではその舵取りはてんでままならない。たしかに数多の善意に支えられた物語ではあるが、決して仰々しい善行を賛美するような語りじゃない。最低限の優しさ、計算のない無償の施しが主役なのだ。
とりわけ、多彩なキャラクターたちの煙草にまつわるやり取りが素晴らしい。金じゃない。かける言葉はなくとも、タバコの一本は躊躇いなく渡すことができる。それくらいが、まずは目指すべき最初の一歩なんだろう。難民だって、生保受給者だって、タバコ一箱、飲み屋の一杯、当然の権利だ。当たり前だ。
だから厨房の小汚い野良犬も、アル中の妻も、簡単に捨てないでいられる。それは当たり前のことなのだ。それが当たり前になる世界をカウリスマキは心底要求している。誰に? 我々に。