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希望のかなたのhorryのレビュー・感想・評価

希望のかなた(2017年製作の映画)
5.0
アキ・カウリスマキの”難民三部作”、『ル・アーブルの靴みがき』に続く二作目

カウリスマキの映画には、生活の大変そうな労働者や失業者がいつも出てくる。貧乏人が貧乏人を助けるというストーリーが多いのだが、それが「法」より優先されることに特徴がある。
ケン・ローチは『わたしは、ダニエル・ブレイク』で、法や役所の取り決めに翻弄される弱い人びとと、彼らの助け合いを描いたけれど、カウリスマキはひょいと「法」と越える。
貧者が隣人を救うために「法」を犯す、そこにためらいはない。

一方、あからさまな悪として描かれるのが、排外主義者のネオナチだ。バスを待っているだけの主人公を脅し、執拗に追いかける。弱い者いじめをするバカども、として描かれているのだけど、これはカウリスマキにしては珍しい。
お金をかすめとったり、権威をかさにきる悪役はいつも出てくけど、どこか憎めないキャラクターだったり、『ル・アーブルの靴みがき』では悪役は貧者とともに「法」を犯していた。

それから、社会の下の方に置かれている人の連帯も、これまで、ここまであからさまには描かれていなかったと思う。シリア難民の主人公は、ストリート・ミュージシャンや、物乞いの老女にお金を渡す。
運送業の男性は、大きな危険をおかして主人公の妹を助けるのだが、見返りはいらないと言う。

カウリスマキといえば、『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』で大笑いした変な間合いや、台詞なしで交わされるやりとり、『過去のない男』や『街のあかり』の一目でカウリスマキと分かる色彩やセット、それが醸し出す「いつの時代の話?」「どこの町の話?」という、現実から少し離れたフィクション性が特徴だ。

今作でもそうしたフィクション性は高いのだけど、それ以上に、今の世界で起こっている不正義というリアル――難民を生み出す政治、難民に向けられる差別――が、ストレートに「怒り」を持って描かれていた。
カウリスマキの「怒り」に圧倒されて、見終わった後は、しばらく言葉が出なかった。

公式ページにカウリスマキのメッセージがあるのだけど、その前半部分が京都シネマの会報に掲載されていたので引用。

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フィンランドに3万人の若いイラク人が突然押しよせてきた時、多くのフィンランド人が60年前のように攻めこまれていると言いだした。新しいクルマとかワックスとかガソリンが、奴らに盗まれると言うんだ。自分の国の人間が、こんな態度をとるのは見たくなかった。

ジャン・ルノワールは『大いなる幻想』で第二次世界大戦を止めようとした。私にそれができなかったのは、ただの失敗だよ。映画にそんな影響力はない。

だけど正直に言えば、世の中の3人くらいにはこの映画を見せて、みんな同じ人間だと分かってもらいたかった。今日は”彼”や”彼女”が難民だけど、明日はあなたが難民になるかもしれないんだ。

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「怒り」に圧倒されたのだけど、でも、「希望」が描かれていて、カウリスマキは世界を信じているのだな、とホッとした。
というのも、本作と同じく「怒り」をフィクション性で覆って描いたクストリッツァの『オン・ザ・ミルキー・ロード』が、世界で今、生きている人びとに向けてではなく、失われた人びとに向けて描かれ、「希望」ではなく、あまりに深い世界への「絶望」を表したものだったから。

『オン・ザ・ミルキー・ロード』のクストリッツァが本当に悲しかったのだが、カウリスマキが「希望」を見せてくれたことで、少し、気持ちが前向きになった。
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