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フィーバー・ルームのryoのレビュー・感想・評価

フィーバー・ルーム(2016年製作の映画)
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2019年7月1日、池袋芸劇。
・胎内を通るような暗闇のなかを、一列に並んで入っていった暗がり。ずっと風の音のような、気配を高める音が鳴っている。そこにいる人々の気配、ささめきと沈黙、暗がりは次第に、ある有機的なものになってゆく。(“劇場は現代の洞窟である”。)
・「映画」は、映し出されるタイの風物を、女性の声が一つずつ名指して行くことから始まる。どこかぼやけた声。名前は、一般名詞の場合もあれば、固有名の場合もある。
名指しには、そのものをたしかに指し示している(のだろう)と(それを知らない)観客がすぐに納得できるようなものもあれば、渾名のようなもの、微妙にそぐわないように感じられるものも含まれている。映し出される風景も、ふつうの景観だけではなく、少しの違和感とおかしみを与えるものたちが選ばれて並べられる。最後に、ある女性の名前を呼んだあと、もう一度、同じ(と観ている者には感じられる)風景が映し出されて、こんどは男性の声が名指しを繰り返す。
ただしそれは、機械的な繰り返しではない。イコールは成り立たない。たんに女性の声が男性に変わっただけではない。同じ風景が繰り返すようで、抜けているものがあったり、映されるものに対して、さっきはあったはずの声/名前がなかったりする。
あれ、これはさっき映ったときは字幕付きで呼ばれてたよな? でも、なんて名前で呼ばれてたんだっけ?
すでに僕らは、見ることと、統合されたものとして認識すること、現在の知覚と記憶との緩やかな結合とほつれ、認識をはみ出して知覚し続けることーーー有用性に拘束されざるを得ない生活の中では無意識化されていってしまう、そこにあるものを見ることの本来に、向き合うことになる。そしてまた、風物が微妙にずれつつ反復されることによって、また与えられるもののファニーさと観るものにショックを与えたり怯えさせたりしない速度感(彼の映画で速さが重んぜられることはない、これは現代においては特筆すべき一つの特徴である)によって、全く知らないはずのものたちに、僕らはある種の親しみを憶えることになる。親しみといっても、長い付き合いで培われる関係みたいに、時間性のあるものではない。芭蕉なら“何やらゆかし”と言うだろうような、なつかしさ、みたいなもの。
当然だが、カメラの機構の内部に、ゆかしさというものはない。それは当然どう撮るかであり、僕らがどう見るかだ。
この親しみを、保持できるかどうか。

・夢。女性が病院のベッドで、男性が洞窟で、寝ている肢体をずっと映すカメラ。(“映画は他人の夢を模倣しているものだと私は考えています”。)
たとえばユングの与えたイメージを、どう考えるか。人が夢を見るということ、の、共同性と、短絡的な有用性からの解き放たれについて。夢想すること。生活から遊離した眼差しをもって生活を眺めること。“自然”は単なる制度、仮構であるか。
・複数のスクリーン。川を行く船の上のショットを、洞窟内を探検するシーンを、最初に与えられた前方のスクリーンの上に一つ、観客の左右に一つずつ、降りてきたスクリーンが複数化する。いや、ほんとうは複数化すると言うだけでは足りない。同時には知覚できない映像がいくつも並行することによって、そこには仮想的にだが立体的な空間が立ち上がる、それはもちろん劇場という人工的な場所にあって切り取られたものではあるけれども、普通に映画を観る意識、つまりスクリーンに集中され、区切られた意識の濃度の高さよりも、どちらかといえば僕らが日々生きているような、意識のoverflow、源泉掛け流し状態に近い。当たり前のことだが、僕らを取り巻く世界はつねにスクリーンも五感もはみ出すものとして存在している。観尽くせないもの、その過剰を、しかし確かに自らもそこに属するものとして感じること。
・洞窟から出て、町に雨が降り出した映像を映していたスクリーンはしずしずと退き、やがて僕らの暗がりは激しい雨音に覆われる。稲光と雷鳴。雨にぼやけたものであるかのように(劇場では僕らは普段より容易に虚構を共有できる)投射される光。いくつもの雨の記憶が、体感を伴って甦る。劇場でほんとうには降っているはずのない雨が、souvenir(思い出すこと)との協働によって降り始める。裡から呼び起こすこと。
(・“私は今まで、映画館の中にスクリーンがあることを観客に自覚してもらいたいと思って、映画を作ってきました。スクリーンというのは平べったいもので、2Dの世界ですけれども、今回『フィーバー・ルーム』で、これを拡張することができたと感じました。ただ平べったい今までのスクリーンに加え、目に見えない距離や膨らみをスクリーンの周りに作りだすことができたと感じました。”)
・そしてアピチャッポンはさらに遡っていく。映画とは光の産物であり、そもそも見えるとは光があるということだ、というはじまりへ。観客に向けて、直接光が投射されはじめる。僕らのいる暗闇をゆっくりと、サーチライトのように照らす光。スモークを焚いて、質感を持たせる。幾層にも重ねて、コントラストを際立たせる。
それらの光が、自分を含む暗闇に投げかけられる。思わず光に手を翳す。「観客」だと思い込んでいた僕等は、いつのまにか光の中にいて、スクリーンになっている。
・光の中で人影を蠢かせる。(2015年の短篇映画《蒸気》のイメージ。)気配。「居る」を仮構し、立ち上げること。
(以下追記)
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