フィーバー・ルームの作品情報・感想・評価 - 4ページ目

フィーバー・ルーム2016年製作の映画)

Fever Room

製作国:

上映時間:90分

4.5

「フィーバー・ルーム」に投稿された感想・評価

nn

nnの感想・評価

4.0

このレビューはネタバレを含みます

- すごい体験をした。吸い込まれた。
- 自分の深淵にある、原始的なものか、記憶なのか、未来なのか、すごく刺激された。
- 宇宙に行ったり来たり。大気圏的な膜を通り過ぎるときの快楽がすごい。
- 信仰してしまいそう。
- 商業的なものに浸かり、お金や生活に追われる日々。何かを追求して作品を作り続けている人達に憧れる。
Kazusa

Kazusaの感想・評価

4.8
夢と現実の往来。

現実のハプティックでミクロで具象的な映像と、夢のイリュージョニスティクでマクロで抽象的な視覚体験が交差する構造。

ファウストとか2001年宇宙の旅からの流れを感じさせつつ、それにとどまらない、新しいアジア映画として独特のモチーフ展開。

チャオプラヤと原始に対する畏怖。
熱気を帯びた部屋としての原始洞窟と脳。

昼寝のアナーキズム。

舞台と客席の逆転、劇場の無限の拡張、忘我、記憶としてのスモッグ。

アトラクションに対するアニミズムとか神性、畏怖を感じるが、それを意図してやっているのかはわからない。

ボートとスピーカーの起動音が重なって、体験者にジェットコースター的恐怖と舞台の深さ/暗さへの恐怖を同一なものとして意識させる。
Ryo

Ryoの感想・評価

-
2019年7月1日、池袋芸劇。
・胎内を通るような暗闇のなかを、一列に並んで入っていった暗がり。ずっと風の音のような、気配を高める音が鳴っている。そこにいる人々の気配、ささめきと沈黙、暗がりは次第に、ある有機的なものになってゆく。(“劇場は現代の洞窟である”。)
・「映画」は、映し出されるタイの風物を、女性の声が一つずつ名指して行くことから始まる。どこかぼやけた声。名前は、一般名詞の場合もあれば、固有名の場合もある。
名指しには、そのものをたしかに指し示している(のだろう)と(それを知らない)観客がすぐに納得できるようなものもあれば、渾名のようなもの、微妙にそぐわないように感じられるものも含まれている。映し出される風景も、ふつうの景観だけではなく、少しのおかしみと違和感を与えるものたちが選ばれて並べられる。最後に、ある女性の名前を呼んだあと、もう一度、同じ(と観ている者には感じられる)風景が映し出されて、こんどは男性の声が名指しを繰り返す。
ただしそれは、機械的な繰り返しではない。イコールは成り立たない。たんに女性の声が男性に変わっただけではない。同じ風景が繰り返すようで、抜けているものがあったり、映されるものに対して、さっきはあったはずの声/名前がなかったりする。
「あれ、これはさっき映ったときは字幕付きで呼ばれてたよな? でも、あれ、なんて名前で呼ばれてたんだっけ? 」
すでに僕らは、見ることと、統合されたものとして認識すること、現在の知覚と記憶との緩やかな結合とほつれ、認識をはみ出して知覚し続けることーーー有用性に拘束されざるを得ない生活の中では無意識化されていってしまう、そこにあるものを見ることの本来に、向き合うことになる。そしてまた、風物が微妙にずれつつ反復されることによって、また与えられるもののファニーさと観るものにショックを与えたり怯えさせたりしない速度感(彼の映画で速さが重んぜられることはない、これは現代においては特筆すべき一つの特徴である)によって、全く知らないはずのものたちに、僕らはある種の親しみを憶えることになる。親しみといっても、長い付き合いで培われる関係みたいに、時間性のあるものではない。芭蕉なら“何やらゆかし”と言うだろうような、なつかしさ、みたいなもの。
当然だが、カメラの機構の内部に、ゆかしさというものはない。それは当然どう撮るかであり、僕らがどう見るかだ。
この親しみを、保持できるかどうか。

・夢。女性が病院のベッドで、男性が洞窟で、寝ている肢体をずっと映すカメラ。(“映画は他人の夢を模倣しているものだと私は考えています”。)
たとえばユングの与えたイメージを、どう考えるか。人が夢を見るということ、の、共同性と、短絡的な有用性からの解き放たれについて。夢想すること。生活から遊離した眼差しをもって生活を眺めること。“自然”は単なる制度、仮構であるか。
・複数のスクリーン。川を行く船の上のショットを、洞窟内を探検するシーンを、最初に与えられた前方のスクリーンの上に一つ、観客の左右に一つずつ、降りてきたスクリーンが複数化する。いや、ほんとうは複数化すると言うだけでは足りない。同時には知覚できない映像がいくつも並行することによって、そこには仮想的にだが立体的な空間が立ち上がる、それはもちろん劇場という人工的な場所にあって切り取られたものではあるけれども、普通に映画を観る意識、つまりスクリーンに集中され、区切られた意識の濃度の高さよりも、どちらかといえば僕らが日々生きているような、意識のoverflowの源泉掛け流し状態に近い。当たり前のことだが、僕らを取り巻く世界はつねにスクリーンも五感もはみ出すものとして存在している。観尽くせないもの、その過剰を、しかし確かに自らもそこに属するものとして感じること。
・洞窟から出て、町に雨が降り出した映像を映していたスクリーンはしずしずと退き、やがて僕らの暗がりは激しい雨音に覆われる。稲光と雷鳴。雨にぼやけたものであるかのように(劇場では僕らは普段より容易に虚構を共有できる)投射される光。いくつもの雨の記憶が、体感を伴って甦る。劇場でほんとうには降っているはずのない雨が、souvenir(思い出すこと)との協働によって降り始める。裡から呼び起こすこと。
(・“私は今まで、映画館の中にスクリーンがあることを観客に自覚してもらいたいと思って、映画を作ってきました。スクリーンというのは平べったいもので、2Dの世界ですけれども、今回『フィーバー・ルーム』で、これを拡張することができたと感じました。ただ平べったい今までのスクリーンに加え、目に見えない距離や膨らみをスクリーンの周りに作りだすことができたと感じました。”)
・そしてアピチャッポンはさらに遡っていく。映画とは光の産物であり、そもそも見えるとは光があるということだ、というはじまりへ。観客に向けて、直接光が投射されはじめる。僕らのいる暗闇をゆっくりと、サーチライトのように照らす光。スモークを焚いて、質感を持たせる。幾層にも重ねて、コントラストを際立たせる。
それらの光が、自分を含む暗闇に投げかけられる。思わず光に手を翳す。「観客」だと思い込んでいた僕等は、いつのまにか光の中にいて、スクリーンになっている。
・光の中で人影を蠢かせる。(2015年の短篇映画《蒸気》のイメージ。)気配。「居る」を仮構し、立ち上げること。
(以下追記)
床ずれ

床ずれの感想・評価

4.8
久々にアピチャッポンの世界に吸い込まれて、そして打ちのめされた。
最近、光とは力=権力(power)なんじゃないかと考えている。アピチャッポン映画において王様や兵隊が「光りの墓」に眠るのはそのためだろう。
『Fever Room』で、轟音とスモークに包まれながら、トンネルのような光の渦に吸い込まれる時、『世紀の光』のラストに出てくるダクトの黒い穴を思い出した。このダクトに吸い込まれた先の世界は、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。
ジェンおばさんは最近、見た夢を覚えていないと言っていた。それは若い男に光を奪われたからだという。何故男は光を奪うのか。それは恐らく、力=権力への意志のようなものが働いているに違いない。我々は、そんな力=権力を全身に浴びながら、光の洞窟を彷徨い、冥府への境界を垣間見ていたのかもしれない。
常々。
アピチャッポンの光の粒を
浴びてみたいものだと
思っていたのだけれど、
光線を浴びれてしまう
という贅沢。

幸せだった。
神様だったし天界の人だった。

こんなの作れるなんてズルい。

観にきている人たちの
真面目さにも感心した。

椅子席の真ん中に座れて
それはそれはラッキー。

みんな多く語らないから
わたしも言わない。
これは映画ですか? NO
これは舞台ですか? NO
これは音楽ですか? NO
これはアートですか? NO
これはテクノロジーの映画ですか? NO
これは自然の舞台ですか? NO
これは夢ですか? NO
これは現実ですか? NO

あなたは私たちのために作品を作り続けますか? YES
光のスモークにのまれる瞬間、無意識に息を止めている自分がいた。

気怠い眠気を伴った夢の中を漂いながら、遠くの音や光を必死に探そうと知覚を尖らせる。死にゆく自分と、まだ生きていたいと願う自分を俯瞰してみているような、儚げで不思議な時間だった。
歌麿

歌麿の感想・評価

5.0
3年前に鑑賞、観劇したが
あの世を観たのか? 衝撃と出くわした。
PANDANOIE

PANDANOIEの感想・評価

5.0
アピチャッポンの波にのまれて、アピチャッポンの海で泳いだ。泣きそうになったり爆笑したり、不思議な体験をした。ここは夢の中?アピチャッポンすごいすごいすごいすごい
中本

中本の感想・評価

4.0
些細なことや通り過ぎること。複数のスクリーンの中の1つを見る時、他の映像は見えない。終盤光とスモークの氾濫でなにか召されそうになった。