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寝ても覚めてもの小のネタバレレビュー・内容・結末

寝ても覚めても(2018年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

公開初日の9月1日に「個人的濱口竜介祭り」を開催し、舞台挨拶付き上映を場所を変え2回鑑賞した。濱口監督商業作品デビュー作にして、カンヌ国際映画祭のコンペティション部門にいきなり選出されるという。

恋愛をテーマにしながら、私たちの価値観を揺さぶるような主張を、美しい映像で描く。2人が向き合う場面の演出、緊張感ある会話劇、クライマックスで2人が走る俯瞰ショットの光の動きなど、これまでの作品でも感じてきたシネフィルの監督らしい映画的な表現が素晴らしい。

濱口監督は解説がとても上手くて、本作を解釈するにあたり私が知りたいこと、納得したいことはパンフレットの監督のコメントにほぼすべて書いてあるし、その要約とも言うべき部分は、公式ウェブの監督コメントに掲載されている。

なので正確にはそちらをご覧いただくのが良いのだけれど、自分の理解と記録のためにかなり引用しつつ、物語を内容と解釈を書き残しておこうかと。

【あらすじ】
大阪。朝子は、麦(ばく)と運命的な恋に落ちるが、ある日、麦は朝子の前から忽然と姿を消す。2年後、東京。朝子は麦と瓜二つな顔の亮平と出会う。麦のことを忘れられない朝子は亮平を避けようとする。しかし亮平はそんな朝子に好意を抱き、朝子も戸惑いながらも亮平に惹かれていく。

【世界観】
<震災は「今日は、まったく昨日と違う日である」という事実を示しました。それを真摯に受け取ればもはや私たちは「日常」という感覚を持つこと自体不可能になるはずでした。にもかかわらず、日本の社会全体が「昨日と今日はだいたい同じ日で、明日もきっと同じような日が来る」と、つまり「日常」は続いているという虚構を相も変わらず強弁しています。おそらく誰も「日常」のない世界に耐えられないからでしょう。そもそも「日常」と「非日常」をはっきり隔てることができず、明日どころか次の瞬間すらどうなるかわからないような生を、果たして人は生き得るものでしょうか。>

【解釈】
<麦/亮平というキャラクターが非日常/日常というそれぞれの要素を象徴して>いる。終盤、朝子は2人の間を揺れ動き、彼女は自身の感情に従い真っすぐに行動する。それは単なる自分勝手に思え<観客の多くは、亮平やマヤ(引用者注:朝子の友人)の怒りに同調するかもしれ>ない。

しかし、濱口監督は言う。<たとえそれが社会の批判を受けるような行動であっても、彼女は迷いなく自分自身の感情を尊重することができる。暴力的に見えるとしても、私はそれこそが誰かと真に長く続く関係を築く上での基盤だと思います。「自分自身の感情を尊重すること」なくしては、どのような他者との関係も続けることはできない。朝子はそのことを理屈抜きに理解しています。>

<(原作『寝ても覚めても』は)他者同士が「自身の感情を尊重する」なら、一緒にいることは単に喜びをもたらすだけでなく、互いを破壊するような暴力性も同時に持つ。その恋愛の困難さを真正面から扱っている>。

話ことばとしてリアリティのない「愛」という言葉を、濱口監督は恋人たちに決して語らせないけれど、物語の終わりの方で「絶対、許されない」「一生、信じない」「汚い」「でも、きれい」という言葉が彼らから発せられるのを聞いて「ああ、愛を語っているな」と感じた。

<『寝ても覚めても』の中の恋人たちは、恋すること・愛することを通じて、日常/非日常の境が崩壊したあとの「次の瞬間何が起こるかわからない」過酷な生へと、決然と踏み出していきます。>

「愛」とは一緒にいる人同士が<「自身の感情を尊重すること」>についてその暴力性をも含め、お互いに受け入れることではないか。そうした「愛」を通じて人は<「次の瞬間何が起こるかわからない」過酷な生>を生き抜く覚悟ができるのではないか。

東出昌大さんは「ハッピーエンドだと思っている」と話していたけれど、私もそう思う。ラストシーンの2人の表情に確かな「愛」を感じたから。

●物語(50%×5.0):2.50
・観た直後はよくわからなかったけれど、考えると深い物語。濱口監督って考えが一歩先に進んでいる感じがした。

●演技、演出(30%×4.5):1.35
・俳優の素を尊重し、過剰な演技をさせないための、イントネーションや抑揚などを排した台本の「電話帳読み」はプロにも有効だったのではないかと。演出も楽しめた。

●画、音、音楽(20%×4.5):0.90
・音の使い方も上手と感じた。
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