ケンヤム

寝ても覚めてものケンヤムのレビュー・感想・評価

寝ても覚めても(2018年製作の映画)
4.8
やっぱり私たちは、演技しないと生きていけない。
女は女であることを演じるし、男は男であることを演じる。
「私亮平のこと好きやで」
と何かを確認するかのように、定期的につぶやく朝子の気持ち悪さ。
彼女はそれを言うことで、女をうまく演じることができているか亮平に無意識に確認しているのだと思う。

朝子が猫に餌をやってるところを、亮平が階段の上から見ていたら、不意に朝子と目があってしまうシーン。
普通猫に餌をやっていて、頭上を気にすることなどないはずだ。
朝子は、亮平に見られていることを意識しながら猫に餌をやるという「行為」をしているから目があったのだ。そのことの気持ち悪さ。

この映画では「行為」という身体性が最大のテーマになっているように思う。
私たちは他者と自己の間の媒介として、「行為」と「言語」を操る。
その過程で、私たちは演じる。
その時と場によって演じる役割を選択し、一つの物語の結末に向かって、役割を全うするのだ。

お好み焼きパーティーで、喧嘩して仲直りする一連のシークエンスを見ているとゾッとする。
あの場では誰もが本音を飲み込み「喧嘩するほど仲が良い」的な結末に一致団結して向かっていく。
朝子は仲直りという結末に誘導するために薄っぺらい言葉を吐く。
そして、喧嘩するほど仲が良い的な物語はハッピーエンドを迎えるのだ。

そんな朝子の女の子を演じ続ける人生をみていると嫌悪といたたまれなさが同時に湧き上がってくる。
「そんな物語から逃げろ!」と言いたくなる。
そんな時「家族ゲーム」の松田優作よろしくバクは朝子を連れ去るのだ。
いや、あれは朝子が主体的に物語から脱出したのか。

彼女は逃げて逃げて、海まで行ってバクからも決別し、そして男性性の象徴である車からも決別し、自分の足で歩く。
亮平の元へ戻る。
その道中で彼女は病によって身動きひとつ取れなくなった、言葉ひとつ喋れなくなった岡崎と再会する。
行為と言葉を完全に失った岡崎は自由だ。
演じるという行為から解放された存在として、朝子に啓示を与える。

そして朝子は初めて能動的な言葉として隆平に「好き」と口にするのだ。
「信じてもらえなくてもいいから私は好きだ」と口にするのだ
朝子がバクという暴力的に秩序を乱す存在によって変えられたように、震災という暴力によって私たちの物語も変容せざるを得ない。
それは自己と他者、男と女、身体と意識が変わるということ。
今までの一切の役割や演じてきた自分自身を変えるということだ。

変容して自分の足で歩いている朝子の姿は美しい。
あの禍々しい、亡霊のような朝子とは違う背筋のしゃんと伸びた朝子。
前半の朝子をまともだと感じ、後半の朝子をホラーだ異常だと感じるのは、私たちがまだ暴力によって何も変えられていない幸せな状態にあるからだと思う。
その証拠に、変わり切った朝子をみた仲本工事は何かを悟ったような顔をしていた。
それは、未だに仮設住宅に住む仲本工事が震災という暴力によって全てをまるっと変えられてしまった当事者だからなのだと思う。

私たちも私たちの物語からいい加減抜けださなくてはならない。
物語という言葉を言い換えるなら、類似と反復から抜け出さなくてはいけない。
それは、全てを投げ出すことなのかもしれないけれど、朝子がしたように全てを投げ出した後過去に拾いにいくこともできるだろう。
それこそ、起こったこと全てを鮮明に記録してしまう映画という残酷な装置によって。
ケンヤム

ケンヤム