ぽんぬふ

寝ても覚めてものぽんぬふのネタバレレビュー・内容・結末

寝ても覚めても(2018年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

映画は根源的に形でしかない。では、形によって無形のはずの愛をどう表せるのか(表せないのか)ということはしばしば取り上げられるテーマである。最近では『シェイブ・オブ・ウォーター』なんかがそうかなと思うし、ゴダールの『決別』も僕にはそういう映画に観えた。
デルトロにもゴダールにも、根底にあったのは「たかが"形"かもしれないが、それでも"形"を愛する」というロマンチックさであったと思う。『シェイプ・オブ・ウォーター』でクリーチャーが映画館で立ちつくしてスクリーンに釘付けになる場面の美しさ。『決別』で愛を形で逆に定義しようとしたゴダール。
しかし濱口は、その点恐ろしいくらいにリアリスティックだ。形の同じ2人を区別して愛せるのか。一応の着地はみるが、しかしその先の2人の生活が常に破滅と隣り合わせであることは、家の裏を流れる川、それを見つめる2人のラストショットでいやになる程表現されている(川は朝子と獏の出会いの場所であり、流れ続くもの、そして氾濫するもの)。
「一生信用できないんだろうな」と言う良太が、それでも2人で生きていく、ことがこの映画の着地であるからこそ、震災を描いたのが必然だったと思える。夢のような恋が終わり、その呪いから逃げ続けていた朝子と良太を再び引き合わせたのは、震災という、どうしようもない現実、隣り合わせの破滅であった。演劇が上演されなかったことも、濱口映画において重要なような気もする。その現実を繋ぎ止めようと朝子と良太は精力的に被災地でのボランティアを行い、最後の最後に朝子を引き戻したのも被災地の海であった。破滅と隣り合わせで生きることを否定するのでもなく、茶化すのでもなく、しかし生きることを肯定もしない。ただ生きる続けるしかないから生きるだけ、という冷徹さは、ぼくにとって身近に感じられた。
夢から現実へ現実から夢へ、時にはグラデーション付きで、時には急激な移行は、濱口の卓越したフレーミングで演出されている。写すことではなく写さないことで何かを表現できる、素晴らしい作家だなと観るたびに思う。
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