ダワーニャミーンビャンバドルジ

ポルトのダワーニャミーンビャンバドルジのネタバレレビュー・内容・結末

ポルト(2016年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

35ミリ、16ミリ、そしてスーパー8の3種類のカメラを用いて、現在、過去、そして主人公たちの夢を描き分けた意欲作。監督はブラジルのゲイブ・クリンガー。独学で映画を学んで、今は大学で教鞭を執っているというマジモンのシネフィル。

ポルトガルの港町ポルトで再び巡り合った男女が、一夜を共にするが結局結ばれない(女の方に婚約者がいた)、という過去パートは35ミリ、そして彼らの、それぞれ不満を抱いたままのどん底の現在は16ミリ、そして彼らの夢の中の記憶はスーパー8で撮影されている。そもそも、何故こんなややこしくて面倒な工夫を凝らしているのか。単に過去を美化して描くというだけが目的ではないだろう。その答えは作品の章立ての仕方にある。

本作は三部構成の作品である。と言ってもそれは、過去・現在・夢の三部ではない。Chapter 1では26歳のアメリカ人ジェイク、Chapter 2では32歳のフランス人留学生マティの視点から、過去・現在・彼らの夢が語られる。そしてChapter 3において「ジェイクとマティ」という形で、過去、運命的な出会いを果たしたジェイクとマティのあの夜について、カメラは何があったのかを観客に見せる。

ではその構成が一体何を生むのかと言えば、それは同じ夜、同じ空間を、恐らくは同じ想いで過ごしたはずの2人の記憶が、それぞれ違う部分を印象深いものとして記憶し、ある部分は完全に捨象されているということの表現に他ならない。

最も輝かしい夜、その余韻が残る朝と昼は2人にとってかけがえのない思い出となるが、その構成要素は全く同じとはならないのだ。それは単に男女の違いによってのみもたらされる問題という訳ではない。美しい幕引きとして挿入されたあのショット、エピソードは、前のどちらの章でも思い出されることのなかったものである。そもそも人間には物事を完全に覚えることなど不可能である。それは「映画を見る」という行為に関しても同様だ。フィルムからスクリーンに投影された映像を観客は見るわけだが、観客が見た映像は次の瞬間には無数の記憶の断片として切断され連続性を失い、やがてサイズの小さなもの、インパクトの薄いもの、保存状態が良くないものから捨象されていく。暫くすればほんの2,3の、強く刻み付けられた断片だけが残り、やがてはそれすら風化して消え失せ、作品全体をぼんやりと評価する「印象」だけが残る。

思い出の一夜を思い出しながら離れ離れになった男女が思い悩み、そのまま特に何かが解決するでもなく物語は終わるので、わかりやすいハッピーエンドを求める人にとってはこの上なくつまらない作品なんだろうなと思うのだけど、この上なく「映画鑑賞的」な映画に巡り会えた幸せを僕はもう少しだけ噛み締めたい。

と言っても、この文章もまた不完全な記憶の断片から構成された不完全な感想なわけだが。映画の感想は作品を見た直後に書かなきゃいけないという戒めを、本作の鑑賞から9日経った今、前述の幸せと共に改めて噛み締める。