マクガフィン

スリー・ビルボードのマクガフィンのレビュー・感想・評価

スリー・ビルボード(2017年製作の映画)
2.9
娘を殺害された母親が警察を批判する看板を設置したことから、予期せぬ事件が起こるクライムサスペンス映画。

田舎町はアメリカの縮図だが、それはイギリス人監督がアメリカを客観視した縮図が前提としてあり、アメリカの社会が抱えている問題が垣間見れることを、西部劇調のフォーマットに則った予定調和にならないプロットが多様で広範囲な問題の縮図と相重なるように感じる。

憤怒を赤い3つの看板に具現化したことが根積となり、それを発端に事件起こる設定のアイディアまでは良いが、全ての事件が人の行為であり、偶発的事件がないことが意外に感じる。
3つの看板は、主人公である被害者の母親と警察署長とその部下の警察の3人で、看板に裏表があると同様に人間の表裏を丁寧に描写して、其々の人の外見や言動で判別できないことを投げかける。

事件の過程が多種多様な人々の憎悪・偏見・差別・誤解・後悔・悔恨などの感情から起こり、国境はもちろんだが、もっと細かく様々な境目を作り上げた要因を焙り出し、それらが弾圧・封じ込め・不寛容・排外・暴動などの確執を生み出す。

そのまま文章にすると難しいので、コミュニケーションに置き換えると解りやすいかも。
発信者と受信者の意図の相異や共有化がされていない不一致はミスコミュニケーションで、円滑に解決できないディスコミュニケーションの両方の食い違いやボタンの掛け違いが、複雑に絡まりを事件に例えていており、更に問題が相乗することで事件も肥大化すると解釈。

些細なことが大きな違いに発展したり、お互いに理解できないから、コミュニケーションを取らなくなることも多く、更にコミュニケーションを取らないから認識のズレは日常的にありえること。職業・性別・立場の違いからも軋轢は生じる。

主人公の行動は集団心理である傍観者効果の、責任分散・多元的無知・評価懸念の全て真逆の行動をとることにより、言わば反面教師みたいな感じに近いかな。
「ゲット・アウト」は、マイノリティが本能的に感じる差別や不安を主人公に反映させてことを観衆が疑似体験するような共感性羞恥だが、今作はマイノリティに対する大多数的な行動である普遍性と真逆なことをして観衆に問題を訊ねる。

神父が行動を但し、神父や署長の解決を目的とした臨床的なコミュニケーションを痛烈に拒否するコミュニケーションの不全や失敗は、主人公の実践知が一方的に足りないディスコミュニケーションに成り下がるので根幹が揺らぐ。なぜ署長個人を対象にした説得力が理解できなく、一人が集団を破壊するような危うさは集団や会社でもありえて、それが一番共感できない所以である。

クライムサスペンスから一転して、次第に其々の人間らしさを繊細に描いたヒューマンドラマにテイストが変わるプロットは人間賛歌に。
序盤で神父に話したマイノリティに対する傍観者効果を否定することが終盤に現実的になり、憎しみの連鎖をどう断ち切るかどうかが焦点になっていた経緯と相反する行動をすることに。しかし、その行動について考えて僅かな希望が宿るのだが、その希望を選択した場合は、主人公が言う傍観者に成り下がる矛盾を感じてしまい、最後まで理解が及ばない。

「ゲット・アウト」見る前ならもっと評価が上がったと思う。
立場・思想・人種などで異なる考えを持つ相手を受け入れる多様性が重要なことは理解できるのだが、作品の根底とシーンの繋ぎが弱く構成力が足りない結果になったことと、作品が咀嚼できなくズレた解釈をしたと思うので相性が良くない結果に。