『怒りは怒りを来たす』
未解決レイプ殺人事件の被害者の母・ミルドレッドが町外れに立てた三枚の広告板を巡って起きる復讐劇。
復讐劇と書きましたが、この作品で怒りとともに描かれているのが”許し”。
ウィロビー署長から始まり、レッド、ディクソン、そしてミルドレッドと、連鎖するように誰かが誰かを怒り、許していく。
燃える広告板、警察署への放火という強烈な印象を残す怒りの表現とは対照的に、手紙やオレンジジュースを使った許しの表現は少しわかりづらい。
しかしその許しが人の気持ちを揺さぶる様子は彼等の表情や行動となってとても丁寧に描かれていたように思います。
そしてまるで悲劇を繰り返さんばかりのモヤモヤが残るラストには、「自分を許す」ことの難しさを実感しました。
特にミルドレッドにとっての”怒り”とはある種の罰のようなもので、彼女は母親として、あの日の償いとして、「そう在らなければならない」と思っているようにさえ感じてしまいます。
怒るのにはエネルギーがいて、自分を怒るのにはもっとエネルギーがいる。
怒りを抱えているうちは辛い出来事だって過去にはなってくれないし、大切な人を失った悲しみだけを存分に受け止める事も出来ないのだ。
それでも、たとえ全ては昇華できなくても、他者から許され、他者を許していくと同時にミルドレッドの時は徐々に動き出していたのかもしれない。
それは最後、ミルドレッドが気の抜けたように「あんまり」とこぼす姿から是非感じ取ってほしい。
なにより希望とは、前に進もうとしている人にしか見えないものだと思うから。