くわまんG

スリー・ビルボードのくわまんGのレビュー・感想・評価

スリー・ビルボード(2017年製作の映画)
3.5
これは、差別そのものへの批判でしょう。自分は正直言って、差別を克服できていません。なのにそこまで響かなかった。本作で、誰かから許され救われていたことに気づいたミルドレッドとディクソンはやっと前を向いたけれど、心が救われるのに、こんなにも遠回りして傷だらけにならなくてもいいんじゃなかろうか。

愛と平和に対するこんなアプローチは初めて見ました。本当にお見事。ただどうしても自分にはわかりません。差別を批判する人の多くは、差別を克服してなお、なぜまだ穏やかでないのか。他者を救って自身も救われたはずなのに、なぜ未だに差別主義者を許せないのか。自身が救われていないからではないのか。

全ての他者を受け入れ、その全てを許す。これが本作の推奨する差別の克服法。皮肉抜きに手放しで素晴らしいと思います。ですが今の世の中、これを遂行するために、少なくとも知性と精神力が、高水準かつ恒久的に要ります。それはあまりに敷居が高くないか。

果たして差別主義者から見て“下”なミルドレッドは、この上無い喪失を味わって知性も精神力も維持できなかった。当たり前です。そんなのまともなら無理なんです。一方、彼女が人を許せるようになるまでにしでかしたことは、恐ろしいほど安易にできます。彼女より小さな喪失に触れた他の誰かも、誰かに救われていることに気づくまで、もっと容易く小さな暴挙に出るでしょう。

認識は万人のもの。だから誰にでもできることじゃなきゃ変わらないと思います。そこで本作が勧めている「理性を捨てずに感情を御する」の達成は、極めてハードではないか。理念を理解すること自体が難しいのに。そもそも達成している人が満たされた感じじゃないのに、誰もが倣う気になるでしょうか。

心は、もっとイージーに救われてよいと思います。昔から人類はそうしてきたのですから。何もかも考えるのをやめて、十字架を握ったりお経を唱えたり額を床につけることは、まともじゃないかもしれませんが、少なくとも誰にでもできることです。実績だって言うまでもなく圧倒的に上げているのです。

そうして「信じれば救われる」と自身を洗脳した人は、「まとも」の代わりに恒常的な平安を得、他者との比較から解放されます。まともじゃないけど幸せそうな人と、彼らをキ○ガイだと判断できるまともな人。差別はどちらで起きやすいのか。

差別の根絶は人類にとって、奇跡と呼ぶに相応しい至難のミッションです。ところで人類史上、奇跡を起こした人達は往々にして、「ヘンなやつ」でした。そう見えるのは彼らが、他人が「バカな」と言ったことを信じ込んだ、まともじゃない狂信者だったからでしょう。この点に可能性が見出だせやしないか。

ホドロフスキーもカウリスマキもデル・トロもコーエン兄弟もスピルバーグもディズニーも、みんなまともじゃないのに、彼らが人心をつかむのは、その心に揺るぎなく信じている“神”があるからでしょう。そして我々はいつでも誰でも、彼らに倣わなくとも、「神様的なものを信じる」くらいできるのです。自分は、ここに希望を見ます。