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花筐/HANAGATAMIのkuuのレビュー・感想・評価

花筐/HANAGATAMI(2017年製作の映画)
4.0
『花筐/HANAGATAMI』
映倫区分 PG12.
製作年 2017年。上映時間 169分。
大林宣彦監督が、1977年のデビュー作『HOUSE ハウス』より以前に書き上げていた幻の脚本を映画化し、『この空の花』『野のなななのか』に続く戦争3部作の最終章として撮り上げた青春群像劇。
檀一雄の純文学『花筐』を原作に、戦争の足音が迫る時代を懸命に生きる若者たちの友情や恋を赤裸々に描き出す。

1941年、春。佐賀県唐津市の叔母のもとに身を寄せている17歳の俊彦は、アポロ神のような鵜飼、虚無僧のような吉良、お調子者の阿蘇ら個性豊かな学友たちと共に『勇気を試す冒険』に興じる日々を送っていた。
肺病を患う従妹・美那に思いを寄せる俊彦だったが、その一方で女友達のあきねや千歳と青春を謳歌している。
そんな彼らの日常は、いつしか恐ろしい戦争の渦に飲み込まれていき。。。

『 花筐は反戦映画でなく厭戦映画だといふきみへ』
          kuu ことGEORGE
村巷、白皙 白けた人々は生を営み
煩悩を喰らひて去って逝く
誰ひとり誰のためとて
歪んだ死者に哀悼の誠すら捧げず
悲哀など見ようとせず
名もなき人々の名もなき夜に
人懐こい笑顔が
ひと頃
苦難に身をさらすことすら知らないで
徒輩は虚言に周章狼狽す
苦難に身をさらす
徒輩の衣はまるで鹿驚(カカシ)
すでに枯れ朽ち果ててゐる
か細き四肢は早くも枯れ萎びれて
祭りの犇めく喧騒は
独り法師の情けすらなく
柔和な者や懦夫を押しつぶす
臆病で庇護もなく
しかし喧騒に紛れ
少時の間彼らの後を追う
徒輩は制裁騙る残酷な手に捕らわれ
常に時を知らせる針に刺され
荒涼たる胸内で征野に彷徨ふ
そして鬼胎に望まぬことを待つてゐる
征野には長逝があるだろう
しかし、その長逝は
稚子のころに
ふと聞いた儼乎たる死ではない
征野にあるは辨別すらなき長逝
眇眇たる長逝
熟れることすら知らなぬ液果
我 長逝はそのようなもの
我 長逝などは青い液果のよう
ほうらそこの枝に忘れ去られてゐる
もし神や仏が居るのなら
人 面面平安往生お与えください
愛の意味を見失いつつある
差し迫った世で生きる一人の命から
赫々たる命が成果させねばならないのです                 了。
人生は儚い。
幸せの瞬間はすぐに過ぎ去る。

今作品は、人生の二面性を生かした物語であると思います。
一方では、萌えたつ瞬間(食べる喜び、友情と家族、そしてエロティシズム)を儚く切り取ることで、物語が強調するのは、我々が社会の中で機能するために重要な、人生のエロースという側面。
このエロースの側面は、鵜飼のキャラによってとても鮮やかに象徴されてて、吉良(英語のkillerと共鳴しているよう)が解き放つタナトス(ギリシャ神話で、死を擬人化した神)の側面と対比してる。
作中、バラの花弁が落ちて血の滴に変わるところである。
このショットは物語全体を通して繰り返される。)
まさに吉良ちゅう人物を通して、もう一つの側面、人間性に起因する非論理的な側面が初めて痛切に呼び起こされる。
彼はほとんどの場合、想像上の喜びの背後に隠され存在してる。
そのトラウマ的現実を指摘している。
喜びは、必要やけど現実に対する偽善的な盲目と防御として機能している。
もうひとつのレベルでは、
『啓示 』
これは、物語の主要なテーマ、戦争の迫り来る影響を予感させる。 
詩的で掻き立てるようなイメージ、たとえば血のモチーフが繰り返し出てくる戦争への明示的な言及が絶え間なく強調するものがあるとすれば、それは破壊的で不合理な現実
『戦争と死』
ちゅうモンが、想像上の日常の喜びのようなものに迫る脅威と云える。
作中、死と戦争を最も明確に連想させんのは、戦争に向かう兵士たちのショット。
兵士の青白さは(白塗り、柄本時生一人だけ塗りなし)、兵士を行進する肉体に変え、栄光を求める英雄的な行進を、確実な死への悲しい行進に改める。
さらに、物語が進むにつれて、その脅威はより明白になり、最終的には戦前の日常生活の想像上の楽しみを解体してしまうほどでした。
作中、仔犬を吊るす(吉良が鵜飼の仔犬をリードで柱に吊るす)という行為は、私たちが食べ物を享受するためには動物が殺されなければならないことを思い起こさせるものでもある。
つまり、この行為は、私たちの想像上の生の喜びを支えている生と死の隠れたサイクルを、一種の解釈として指し示していると云える。
今作品は、文体詩の作品としか云いようのないものを作り上げ、連想させるイメージに満ちた詩の作品に仕上げていました。
大林監督の文体詩は、物語の冒頭では少し大げさで圧倒的な印象を与えるが、最終的に移り変わるイメージ、俊彦とその友たち、ほんで彼らが唐津で生きている人生に焦点を当てた一瞬のヴィネットの豊かなパレットを、簡潔な正確さで表現し、非常に心地よく純粋な印象派絵画に仕上げてました。
今作品では、フラッシュバックで満ちてた。
多くの場合、フラッシュバックは記憶の機能と同じように、連想的に組み立てられている。
こないして、視覚的なフラッシュバックはその儚さを保ち、しばしば一種のノスタルジーを呼び起こすと同時に、物語を貫く詩的な連想を強めている。
また、大林監督が連想のイメージを方向づける上で、記号を重要視していることもわかる。
今作品で大林は、力強い詩的なイメージと喚起的な構図、つまり長く心に残るイメージと構図を構成する個人的な頂点に到達した。
今作品では、クラシック音楽、日本の伝統音楽、能楽堂によくある伝統的な太鼓の音など、同様に風変わりで多彩なブレンドによって支えられてましま。
この複雑なブレンドは、映画的な構成の不可欠な部分であり、様式的なイメージの流れと儚さを適切に後押ししている。
それは、死と破壊の予感を絶えず物語に吹き込みながら、さまざまな気分をうまく誘い出す。
また、物語に欠かせない能の典型的な音は、しばしばショットの立ち上がりや動き出しと重なったり、ショット間の移行をマークしたりする。
一般に、これらの音は、物語の提示的な性質を強調する以外の目的はなく、それは物語が章立てされていることからも明らかです。
非現実的な舞台のような背景、非現実的で演劇的な照明、そして、登場人物の文章の発し方や会話の演出が常に舞台的な質を保っていることなど、演技にも演劇的な要素があることで、この物語を代表する演劇的な感覚がさらに喚起される。
この演劇性は、榊山俊彦役の窪塚俊介と江馬美那の矢作穂香の演技に最も顕著に現れてた。
このような演出は、観てる側と登場人物との間に多少の距離を生じさせるけど、結果的に大林の連想詩をより感動的なものにしている。
今作品で大林は、音楽、言葉、映像の連想の流れに観てる側を乗せながら、迫りくる戦争の衝撃と死の現実を残酷に突きつける、儚い印象の物語を創り出してました。
人生は儚いもの、幸せの瞬間はすぐに過ぎ去ってしまうものであることが喚起される中、なぜ戦争に皆が投資するのか。
これこそが、『花筐』ちゅう作品の力強い感動的なメッセージなんやろな。
この物語が作られた当時の大林の生活と、この物語に描かれた青年の立場は、かけはなれてるって見る必要はない。
どちらも死を暗示する出来事の前夜にあった。
大林は肺がんステージ4と診断され、余命いくばくもないと告げられたが、語りの中の若者は太平洋戦争の前夜にいる。
このように、『花筐』の映画的な奔放さは、人生やエロスの大げさな表現として読むことができる。
大林監督作の常連俳優・窪塚俊介が俊彦役で主演を結構剽軽な所が今作品にはマッチして演じてた。
俊彦が憧れを抱く美少年・鵜飼役を、今じゃヤンキー役が定着した満島真之介、ヒロイン・美那役を矢作穂香がそれぞれ演じる。
江馬圭子役に常盤貴子(ミステリアスな感じが良かった)、吉良役に長塚圭史(なんとも云えぬストイックさ)、阿蘇役に柄本時生(エエ感じに緩衝となってた)が脇を固める。
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