シュトルム凸映画鑑賞記録用改め

花筐/HANAGATAMIのシュトルム凸映画鑑賞記録用改めのレビュー・感想・評価

花筐/HANAGATAMI(2017年製作の映画)
4.2
映像美に魅せられる、青春の賛歌と哀惜。
1941年、佐賀県唐津。来るべき対米戦争の足音を間近に聞きながら、洋行帰りのお坊ちゃん、榊山俊彦(窪塚俊介)は断崖の上に立つ。立っただけで、もう飛び込む勇気を得たかのように思い込む無邪気さで、旧制高校に飛び込む。その幼いイノセンスは、ニヒリストの吉良(長塚圭史)や、健康な肉体を持て余す鵜飼(満島真之介)ら、煩悶する友人達とは対照的で、何も理解しないまま、戦後も生き残ってしまう人々を暗示するかのようだ。最後まで目隠しをした鬼ごっこの鬼のように…
作品で描かれる戦前の青春は、男も死にゆき、女も死にゆく、そんな断絶の予感が遍在するが故に、かえって眩しく輝かせられる。
前に何かで読んだのだが、戦前は結核があったがために、どうせ長くは生きられない、それが故に生命を浪費する戦争への敷居が低かったのだと。ひとりの典型的軍国主義者も描かずに、大林宣彦は、そんな時代の空気を描き出してみせる。
他に書いておられる人もみかけたが、私も最近観た『エンドレス・ポエトリー』を連想した。青春の暴走、青春の浪費はいずこも同じ…しかし『花筐』の日本の方がどこかに悲壮を漂わせる。張り詰めている、思い詰めている。勇気を強いられている。
反戦テーマであるにもかかわらず、戦後に徐々に失われて行った教養主義など、戦前を強く羨ましく思わされる部分がある。戦後の高度成長と大衆化が、吉良や鵜飼のような若者をもはや不用としたのだろうか。張り詰めた凜とした世界で、人々は勇気という名の暴を振るい、破滅し、そして何かを永遠に失ったように思える。それを象徴するかのように、作中の人々の別れのセリフは常に、さよならである。じゃあねでも、無論バイバイでもなく、凛とした「さよなら」。誰しも明日のことは分からない時代。別離の台詞。
海の中での常盤貴子と満島真之介の絡みは、『地上より永遠に』のバート・ランカスターとデボラ・カーの有名な海辺のラブシーンを想起させる。海の向こう側のハワイで同じような男と女と愛があったのだ。それを断絶させたのは、大を恐れぬ勇気、だったのか?
沢山の新しい知識のとば口も得られた。見事な演技を見せてくれた長塚圭史という俳優、『ポールとヴィルジニー』(幼なじみの悲恋物語とは、結末がすでに暗示されていたのか…)、山中貞雄の『人情紙風船』、そして檀一雄。

追記 上で『エンドレス・ポエトリー』に言及したが、その後パンフレットを読んだところ、常盤貴子の夫役を務めた岡本太陽氏の随想があり、なんと『エンドレス・ポエトリー』のアレハンドロ・ホドロフスキー監督と話した時に、彼の芸術姿勢に大林監督と似たものを感じたと言っている。その姿勢とは、「僕たちには世界は変えられない。僕らが変えられるのは自分自身だけ」
まだ受け止めきれませんが、ゆっくりその意味を咀嚼したい言葉です。