砂

馬を放つの砂のレビュー・感想・評価

馬を放つ(2017年製作の映画)
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私はキルギスの歴史や文化に全く明るくないのだが、本作はそれらが非常に重要。が、物語においての意味合いは漠として理解できる。

*以下ネタバレ含みますが、そこまで重要ではないと判断したのでチェックはつけてません

遊牧民をルーツに持ち、伝説的物語に強く心を寄せるケンタウロスと呼ばれる主人公、富を得て馬をいわば商売道具として扱い成功している権力者。この対比は生活図式においても強調され、象徴化されている。

「かつて馬は人々の翼だった」という言葉を純化するならば、サラブレットという人間のエゴにより人口的に、競争馬としての道具的利用を純粋目的として生み出された生き物は看過しがたいものである。
劇中の現代型生活が生む家族観の希薄化も、馬との絆が分断され修復不可能な段階にあることを示唆する。資本を核とした伝統と現代という単純な二項対立ではなく、もっと複雑な根源的な価値観の相違。

捕まった主人公へ下された罰は「厩舎で働く」「メッカへの巡礼」という耐えがたいものである。モスクでの所作から判断するに、彼は信心を持たない。現代において、彼はすべてから異端。同化するか、追放されるか。
村という狭い共同体に限らず、これは社会の持つ性格だ。人種や宗教だけではなく、理念においてもまた然り。

冒頭では愚者の振る舞いをしていた伝道師の1人が「愚かさを装って信念を持つ」ことを実践している時世に適応した賢者であり、アドバイスをするが終局において彼は受け入れることができなかった。彼が放ち続けた馬も、結局はすべて集団の中に帰ってしまった。それでも放ち続けるのである。


本作においては映画フィルムが持つ役割を考える。映画とは記録されたもの(編集はされるが)を、後世に伝えるものだ。それは音がなくとも、映像として、ビジョンとして共有できるもの。ケンタウロスは元映画技師だった。映画技師は、物語を伝えるという意味において抒情詩人のようなものだ。
かつて映画館だったと思われる場所はモスクとなり、そこで祈りの最中に彼は抜け出し、「馬が駆ける映像」を流し、幸福に満ちた表情をする。

ケンタウロスが「白い馬」を解き放ち、自らの生からも解き放たれたときに、遠く離れた橋の上でしゃべることが出来なかった息子も転び、起き上がりに言葉を発する。
「言葉を持たない家庭」はかつての時代の表象だろうか。言葉の世界において、次世代に言葉を語り継ぐこと。損なわれていくものを認知すること。映画のテーマが濃縮された素敵なラストシーンだった。

訓戒も込めた寓話であり、民族アイデンティティの喪失に限らず普遍的な話である。
牧草地を駆ける馬は非常に美しい。いい映画だった。
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