青山祐介

巴里の空の下セーヌは流れるの青山祐介のレビュー・感想・評価

3.0
『古いパリはもうないのだ(街の姿は変わってゆく、ああ!死すべき者の心よりも早く)…パリは変わってゆく』シャルル・ボードレール「悪の華 ― 白鳥」(ミシェル・ドゥギー「ピエタ ボードレール」鈴木和彦訳 ポイエーシス叢書 未来社2016年より)

ジュリアン・デュヴィヴィエ「巴里の空の下セーヌは流れる(Sous le Ciel de Paris Coule la Seine)」1951年 フランス映画
パリにはさまざまな貌がある。ヴェルレーヌのパリ、ボードレールのパリ、ヴィクトール・ユゴーのパリ、ウージェーヌ・アジェのパリ、ベンヤミンのパリ、薔薇色のパリ、埃っぽいパリ、薄汚れたパリ、流行品店の並ぶパリ、モードのパリ、「通りすがりの女に」捧げるパリ、「被った恥辱を拭い去ってくれるような」夜のパリ、「死にいたるとしても吸いつづけるべき香りの漂う」パリ … いろいろなパリがある。多様な思いがある。この映画は、デュヴィヴィエのパリなのであろうか。パリを知りたいのならば、どのパリでもよい、また誰のパリでもよい、まず×××のパリを知ることだ。デュヴィヴィエは二人の女性を主人公にした。ひとりはパリに住む女マリー=テレーズ、もうひとりは南仏からパリに出て来たドゥニーズ。パリは女性の街 ― いや男の目で見た女の街だからである。パリにはあらゆる人生がある。デュヴィヴィエのパリに住む人々も同じである。むしろお馴染みの登場人物といっていい。かわいいドゥニーズ、頼りにしていた男もけがを負い、いつまでも国家試験に受からない医学生、女占い師、沢山の飼い猫のために餌を求める老嬢、結婚記念日にストライキから離れられない労働者、成績が悪く家に帰ることができず涙をこぼす少女、少女と殺人鬼とのかすかな心の交流、えっ!デュヴィヴィエのパリは、病んだ殺人鬼が次の犠牲者をもとめ徘徊する街なのだ。なんと3人もの女性を殺したパリの殺人鬼は彫刻家であった。一体これは何を意味するのだろう。殺人鬼が登場する理由は?はじめてこの映画を観た時に感じたのもその疑問であった。「パリは怖いよ」「人の心はもっと怖いよ」というものでもないようである。殺人鬼は戦後のパリの化身なのか、運命の化身なのか、パリの孤独を表そうとしたからなのか。
原案はジュリアン・デュヴィヴィエ、脚色はデュヴィヴィエとルネ・ルフェーヴル、台詞はルフェーヴル。パリ解放から八年の歳月が経過したが、パリは変わってしまった。もとに戻ることないだろう。昔のパリの面影はもうないのだ。これは郷愁なのか。「忘れられたもの以外に美しいものはない」(リュリーヌ)パリは心のなかの都会なのだから。
映画の本当の主役はセーヌである。あらゆるものが、恋、悲しみ、苦しみ、喜び、妄想、孤独、若い女の死体すらも、普通のものから不可思議なものまで、あらゆるものが「至る処、樹液のように」流れてゆくセーヌ。そして歌が残った。
♪パリの空の下/ひとつの歌が流れて行く …ノートルダムの近くで時に事件が起きる/でもパナム(Panam)にいるかぎり心配することはない/パリの空の下川はながれる/そんなパリの空が秘めているものは … ♪
(作詞:ジャン・ドレジャック、作曲:ユベール・ジロー)
青山祐介

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