ロッツォ國友

見えるもの、見えざるもののロッツォ國友のレビュー・感想・評価

見えるもの、見えざるもの(2017年製作の映画)
4.5
「見えるもの」と「見えざるもの」が交差し、相関し、入れ替わり、少女を取り巻く美しい世界が、揺るがぬ現実を静かに包んでゆく。


いやーーー、久々にとんでもない映画を観ました…
インドネシア映画ですか。
やられました。
頭グルグルしてますよ。えぇ。


意味があるような、無いような…
現実なのか虚構なのか分からぬものたちが揺れ動く画面に映るインドネシアの風景がまずとても美しい。
ほとんど揺らさず、大半が1カットの長回しのシーンで描かれ、BGMもたまーーーに民族楽器が鳴るだけ。

油断してたら寝ちゃいますけど、でも無駄なシーンなんか一つもないと思った。



脳の腫瘍により寝たきりになってしまう双子の弟?と、それと向き合う女の子のお話。
ただそれだけ。
だが、本作が描かんとしている事は、もっと濃く、奥行きのある精神の在りようそのものであり、プロットは有り得ないぐらいシンプルなのに、語り口は非常に複雑で重層性があり情緒的である。

独特でゆっくりとしたテンポで描かれる、少女の日常。
そこへ登場する、姉と弟を取り巻く世界を語るメタファーの数々。
軍鶏と猿、月とそれを照らす太陽、昼と夜、現実と夢、黄身と白身、死と生。
そして「見えるもの」と「見えざるもの」が交錯しながら、少女の内的な世界が日々変わってゆく。


決して分かりやすい表現ではない。ハッキリ言って難解だ。
一緒に連れてきた友人の1人が、口ポカーンからの爆睡を達成していたが無理もない。
分かる。
俺も最初眠かったもん。

しかし、中盤以降で登場する「死の影達」が、これから直面する事実の熾烈さを物語る。
物語るが、結局最後までハッキリとは描かれず、あくまで少女の瞳に「見えるもの」としてのみ現れるので、我々はそこから、まさしく彼女の瞳から「見えざるもの」を見分けつつ真実を探し出さねばならない。



そもそも映画というものは、観る者に視点を与えて作り上げてゆくものだが、もちろんそれが作品上の真実とイコールであるかどうかは関係ない。
事実があり、設定とストーリーがあり、視点を置いて追ってゆくのが映画。
そして本作は、視点の殆どを少女の心の瞳に置き、そこから「見えるもの」を繋ぎとめて映画を作り出している。
何よりここに感心したし、ありそうでなかったタイプの表現ではないだろうか。


少女にとって「見えるもの」は、周囲の大人には「見えざるもの」かもしれない。
少女には「見えざるもの」であっても、周囲の大人には「見えるもの」として、それはつまり厳然たる真実として存在しているかもしれない。

タイトルが「見えるもの、見えざるもの」となっているが、それらは全く別の存在として棲み分けされているわけではなく、視点や見方を変えることで両者が常に相互に変化するものとして描かれている。


ラストの1カット長回しのシーンでは、カメラを一切動かしていないが、まさしく一つの視点から、「見えざるもの」が「見えるもの」に姿を変える瞬間を捉え、一つの結論をつける形で物語の幕を閉じている。

音楽無し、カット無し、セリフも説明も無しで、一番難解なカオスシーンにも見えるが、そのシーンの意味に、その心に想いを馳せる時、これほどまで残酷で強烈な映像表現は無いと気づき、心を強く揺さぶられる筈だ。
本当に、忘れられないシーンだ。
震えすら感じる。


何度でもいうか、分かりやすい映画ではない。
インドネシアで撮られた映画だし、インドネシアの子どもたちの表現力をそのまま使用した(監督インタビューより)数々のシーンは、普段の我々の生活とは大きく異なるテンポ感なので、その辺が輪をかけて難解になっている所以でもあるだろう。

しかし、他者との精神的距離の変化とその感情を、映像表現として残す一種のチャレンジ精神には驚きを禁じ得ないし、その心理作用そのものは普段の我々の中にも見つける事ができるものだと思う。



家族でポップコーン片手に楽しめる映画ではないが、繊細な情緒を厚く熱く描き切った作品だ。
ゆっくり観て、じっくり考えて、出来ればシェアして語らう価値のある素晴らしい映画だと思う。


東京フィルメックス映画祭はこの前ラジオで知ったばかりだし、忙しくて結局本作しか観れていないが、インドネシア映画なんか観たことなかったので、この体験自体が既に非常に貴重であるし、こういう映画に触れる機会を設けてくれた当映画祭に心から賛辞を送りたい。

是非とも来年は、もっと時間を作って多くの作品に触れられるようにしたいと思った。


素晴らしい映画体験ができました。
ありがとう。
ロッツォ國友

ロッツォ國友