むぎちゃ

ジュリアンのむぎちゃのレビュー・感想・評価

ジュリアン(2017年製作の映画)
3.1
事の顛末ではなくて、終わり方が一番の衝撃だった。
自分以外の人もそうじゃないかな。

さて、当然意図的にそうしたんだろうから、最後の扉を閉めた隣人の視線こそがこの映画を紐解く鍵だと思う。

普段目にする事件てどこで知る?
ニュースとか?
「〇〇県で母子の家に押し入った男を住居侵入、銃刀法違反の容疑で現行犯逮捕しました。
なお、けが人はおらず…」
こんな感じで原稿を淡々と読んでて、大半の視聴者は
「へー、こわいねー」「怪我なかったんだ、よかったねー」
くらいで済まして、多分翌週には覚えてないと思う。

しかし、この映画を観たらもうそう言う風に見れなくなる。でしょ?
あの隣人は家族が内見に来た時と『あの男』が乗り込んだ時くらいしか出番がなかった。
映像的・映画的な意味合いでは、隣人はこの家族とそこしか接点がなかった訳だ。
きっとニュースを見る一視聴者と(=普段の我々と)同じ存在だろう。
『こんな事件に巻き込まれた家族』にあんな背景があるなんて誰が想像できるだろうか!

しかし、何かの結果には相応の原因があるはずだ。
我々現代人は何かの結果だけを与えられ、それ(そこ)に至る過程なんかは知りもしないし分かりもしない。この映画に対してだってそうだ。
だがそうじゃない。夜中に押し入る猟銃を持った熊みたいな男は急にその辺から生えてきた訳では無い。
命からがら生き延びた母子は命を吹き込まれた紙粘土ではない。
恐らく作中最少年のジュリアンですら11年の歴史の上に成り立った『結果』だ。

この目線を持った時、映画を観る側も、何より映画を作る側にも、多大な責任が生ずることがわかる。
映画は軽はずみに命を作り出すことが出来る禁断の錬金術なのだと。

この覚悟を負え!死ぬ気で映画を観ろ!映画を作れ!作品に生きる人間たちの罪や業を共有しろ!

この映画にこんなメッセージがあるなんて思わないけど、それでもそんな映画なんだと思った。

分かりやすくするためか、最終的に父親が狂ってるし悪側ではあるんだけど、母親も母親で割とどうかしてたり、物事は0か100みたいな簡単な話ではないと、昨今の勧善懲悪ものを痛烈に射抜いたような映画だった。
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