なっこ

ダンシング・ベートーヴェンのなっこのレビュー・感想・評価

3.0
ベートーヴェンを踊る

音を目に見えるかたちにする、そう言えば簡単に聞こえるけれど、どの音を切り取ってどの動きに合わせて、その動きを連続させていくのか、振り付けていくことは簡単なことじゃない。演奏家並みに音楽を分析して解釈していなくては、クラシック音楽に造詣の深い人を感動させることは出来ないだろう。細かく決められた動きのひとつひとつがまるで楽譜に並んだ音符のように割り当てられて、それを完璧にこなすバレリーナの身体能力の高さに圧倒させられる。あれほど思った通りに動けたなら、怖いものなんて何もなさそうだ。

声に合わせて踊るのが気持ちいいとダンサーが語るシーンが印象的。自分も歌いながら踊るという。クラシックバレエは音楽というより、オーケストラに合わせて、生演奏で、というイメージだったけれど、第九は合唱パートもある、歌手のソロパートに合わせてのびのびと踊る部分を見ながら、なぜか私は人形浄瑠璃を思い出していた。

語りと三味線に合わせて人形を操るのが人形浄瑠璃。声と音と身体。生身の身体と、人間が操る身体の延長としての人形、という違いがあるけれど、このふたつの舞台装置は実はとても似ているのでは、なんて思い始めていた。

それにしても、このインタビュアーの女優さんはなんてリラックスした態度で取材するのだろう、と思っていたら、中盤でその理由が明らかになる。それは、意図的なサプライズだったのかもしれない、この役割はまさに彼女であることに意味があったのねと納得。

だから、彼女が少しかしこまった様子で向き合った文芸評論家の三浦雅士氏の話ぶりはその流暢な英語とともに印象的だった。そして、日本語でどうぞ、と言われた後の放送事故寸前の長い沈黙も見もの。外国人を前にして日本語で話すのは難しいよ、時間をちょうだい、と笑う姿に彼の知性とユーモアを感じた。全体的にインタビューやレッスンの様子をぶつぶつと切って繋げていくやり方は、語る内容が前後して文脈が見えなくなったりして本人の意図したところを全て拾えているのかちょっと不安になる。欲しいワードを拾い上げて好きに繋げているようにも見えてしまうからだ。第九のstoryがどんな風に展開していくのか知っていないと、その展開を自分なりに組み立て直して理解しながら進むこと難しいかもしれない。けれど、ラストの吹っ切れた感じのナビゲーターの語りを聞きながら、ああこの語りの方法も、第九のように、監督の指揮によって奏でられるドキュメンタリーというひとつの音楽であったのかもしれないと思い直した。それぞれの語りを、どのようにまとめ上げるのか、それは監督の自由であって良いはず。

ベジャールの振り付けは、ボレロを見たことがあるけれど、全体として眺める感じで、ダンサーたちの細かい動きまでは見ることがかなわなかった。ポワントの美しい弧や手の指先の表情までもとらえた映像は、間近で見ることのかなわなかったダンサーたちの肉体美をしっかりと堪能させてくれる。でも、やっぱり本物を見ないとね、と思ってしまうから、これはモーリス・ベジャール・バレエ団のちょっと長めのプロモーションビデオだったのかもしれない、なんて思うけれど、本物を見ることは夢のまた夢なので、せめて映画で出会えて良かった、と思うことにした。
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