「モリのいる場所」
"もっと生きたい、生きるのが好きなんだ"
僕以外"全員老人"という、隠し味が利きすぎたアウトレイジみたいな、そんな滅多に味わえない環境下で作品を鑑賞し映画館を出ると、さっきまでは少しも気付かなかった"夏の匂い"が、銀座の街を吹き抜けた。
君はさっきもそこにいたのかい?
僕がよそ見をしていただけかい?
人は、退屈を嫌う。
退屈とはまるで、この世界から取り残されたかのように感じるから。
自分は今、ここに生きていると感じるために、人は退屈を埋めようとする。
そして世の中は、退屈を埋めたい人の財布の紐を緩めようと、知恵を絞り、しのぎを削り、駆けずり回っている。
退屈が怖いうちは、まだ甘いのだろう。
人としての成熟もなにもかも。
熊谷守一氏の生前の動画を見た。
山崎努さんの再現(喋り方ひとつとっても)や奥さんとの関係性の忠実さにも驚かされたのだが、その動画の中で、描きたい時期以外は何もしないというモリに対して、インタビュアーは、こんな問いかけを投げた。
"退屈しないですか?"
すると、モリはこう答えた。
正確にいうと、奥さんが答えたあとに、こう語った。
"この人(モリ)、退屈っていうのが分からないんですよ、どういうものか"
"石をね、一つ庭から取ってきて眺めてるだけでも、すごい楽しい"
語った。
家に帰って、頭を洗って、身体を洗おうと右手でボディソープのポンプを押した瞬間に分かった。
"退屈"なんてもの、この世に存在しないのかもしれない
って。
そう感じるとしたらそれは、人生の中心を自分に考えているからなのかもと。
自分を主軸に考えるとそうだ。
自分の身の回りで、
自分に何か影響を与え、
自分から感情を生み出し、
自分を変化させること
それがまるで、人生の手本みたいに、当たり前の生き方になってるのかもしれない。
でも、この作品を見たあとに、さっきまでは感じなかった銀座の夏の匂いを感じたには、ちゃんとした理由があったんだ。
深く呼吸をし、ゆっくりと水を飲み、じっくりと身の回りを見渡してみる。
するとどうだろう?
自分とは関係のないところで、確実に淡々と、でもドラマチックに、それぞれの生命が動いている。
世界は、面白いこと面白くないことくだらないこと、、、そんなたくさんで溢れてる。
探すまでもないし、写真に撮って、インスタに上げる必要なんて全くない。
誰かに、"◯◯に行って、◯◯をした"と説明できないこと以外は、"退屈"なんてことは何ひとつないんだ。
人に説明できない自分だけの楽しみだけで、人生は十分に面白い。
もう一度深く呼吸をし、ゆっくりと水を飲み、じっくりと身の回りを見渡してみる。
もし、それでも"退屈"というのだとしたらそれは、自分たちが生きる1分1秒をどう感じるかの違いなのかもしれない。
人生の中で自分を中心に置いている限り、永遠に感じることのできない、人生の豊かなのかもしれない。
人生の中に全てがあるのではなく、全ての中に人生がそれぞれあるのだ。
だから、何もしなくたっていい。
蟻は動き回り、鳥は鳴き、腹が減り、友が訪れ、悪意が姿を見せ、それでも喉が渇き、電話が鳴り、腹が減り、なんなら宇宙人も来るし、タライも落ちる。
何もしなくたって、世界は十分面白い。
たった1日の出来事なのに、世界は面白いと思える。
そっか、人生を舞台にしたお祭りだ。
沖田監督は毎回毎回、かけがえのない一時と捉えてくれる。
「南極料理人」では、駐在期間のかけがえのない時間を。
「キツツキと雨」では、撮影期間のかけがえの、時間を。
「横道世之介」では、青春というかけがえのない時間を。
「滝を見にいく」では、一晩の冒険というかけがえの時間を。
「モヒカン、故郷に帰る」では、出会いと別れというかけがえのない時間を。
そして今回は、人生における何気ない1日というかけがえのない時間を捉えてくれた。
今日は疲れましたね。
でも、それが普通で、それが毎日で、それが死ぬまで続くのだ。
モリは、カレーうどんに対してこう言った。
"うどんとカレー、一緒にしないでもいい"
これは、好き好みの話とも受け取れるけど、今はこう感じる。
モリにとっては、多すぎるのだ。
うどんの味、カレーの味、その別々で十分なんだと。
やっぱりそうだよね、生きるのってめんどくさいけど、愛おしくて楽しい。
僕も好きだよ、ほんとは好きだよ。
"もっと生きたい、生きるのが好きなんだ"
こんなにかっこいい"生への肯定"な言葉を、映画観たのは久しぶりかもしれない。
もしかしたら、サノスに対抗し得る力を持ってるのはモリなのかもね。
ババンババンバンバン
ババンババンバンバン
ババンババンバンバン
ババンババンバンバン
いいことだ
いいことだ
さよならするのは つらいけど
時間だよ
仕方がない
次の回まで ごきげんよう