ベルサイユ製麺

モリのいる場所のベルサイユ製麺のレビュー・感想・評価

モリのいる場所(2018年製作の映画)
4.0
正直に言いますと、樹木希林さん見たさとか以上に、単に沖田修一作品だから観ました。“見たい俳優”とかと同様に“胸いっぱい吸いたい空気感”みたいなモノも有りますよね。
…因みに相変わらずのNO知識鑑賞なので、途中まで実在の人物のお話だとすら知らなかったです。


30年近く森の様な自宅の敷地から出たことが無いという仙人のような芸術家・熊谷守一の晩年の日常を覗いてみよう!🐜🐜🐜🐜 🐜


ビタイチ寄付もせず、堂々とWikipediaからの抜粋を貼ります!だって毎日コーヒーも飲みたいもの!
→《熊谷 守一(くまがい もりかず、1880年(明治13年)4月2日 - 1977年(昭和52年)8月1日)は、日本の画家。日本の美術史においてフォービズムの画家と位置づけられている。しかし作風は徐々にシンプルになり、晩年は抽象絵画に接近した。富裕層の出身であるが極度の芸術家気質で貧乏生活を送り、「二科展」に出品を続け「画壇の仙人」と呼ばれた。勲三等(辞退)、文化勲章(辞退)。》
…ですって。モリこと守一さんに山崎努。奥様の秀子さんに樹木希林。…フォービズムとは?

なんというか、おじいちゃんをクローズアップしたスローライフ的作品は、舞台になっている年代が分かりにくいですね。劇中流れる懐かCMを見るまで現代劇かと思ってしまった。
一般的に伝記作品の多くは、《幼少から全盛期、そして晩年》みたいな総集編スタイルか、最も知られている功績等のエッセンシャルな部分、或いは走馬灯的編集で選り抜き的にその人物の偉業(悪行の場合も…)を描くものかと思われますが、そこは流石の沖田修一。何にも起こらないただの日常の平凡の方だけを切りとって見せます!絵も書もロクに触れねぇでやんの…。モリを慕う周囲の人々が右往左往とかしましく動き回り、しかし当のモリ本人は最小かつ最遅で渦巻く宇宙の中心で自分を生きる。小さくて遅い。それ故、最高。
ガキっぽい例えになりますが、ロックンロールやクラブミュージックって、若い頃はやたらと速くて音符いっぱいでラウドなものの方が過激に思えてしまいますよね。でも、1つのジャンルに長く触れ続けていると少しづつ考え方が変わってきたりするんですよ。遅い事、音数が少ない事、何にも縛られず何にも似てない事(或いは何かと完全に同じである事)って、めちゃくちゃに過激なのではないか?聴き手や商売の事を全く意に介さず好きな様にやる。それ最高ヤバい。とにかく心地良い。気がついたら作品が終わってる。脳じゃなく身体がそれを求めてしまう。マジでカッケェ。

沖田監督が何故この構成を選んだのかは私なんかには当然よく分かりませんです。後半のモリの「下手でいい。上手は先が見えちまいますからね」というセリフと関係があるのか、それとも単に資質に合っているからなのかも。いつも通りにハッキリと分かる山場が無く、とにかく淡々としていて、それでもずっ〜と面白い。これはもう、仙人が作るスープみたいな作品に思えますよ。全く具が入って無いのに、飲めば飲むほど知覚が変化して味わいが増す。これが究極か…、深い……なんて思ってると突然降ってくるのだ!金ダライが!!これがホントに堪らん心地よさ…。普通ここまでビート感の弱い映画にあんなシーンやこんなシーンを盛り込んで、かつ作品が破綻してしまわないなんて事が有りますか⁇この世界はどうなってるの?沖田監督には何時もこんなふうにして心を鷲掴みにされてしまうなぁ。
役者なんかもう、全員ずっと凄いので特筆のしようがないっス。強いて言えば、一糸乱れぬ行進を見せるアリさん(本人役)と、セリフ無しで見事な躍動感を見せつける尺取り虫(本人役)かなあ?…というか、あの小さな庭でテレンス・マリック以上の生命の神秘、時間の流れ方について考えさせてしまう撮影の素晴らしさ(私見です)ですよ!どんな小さな命の中にも無限のルーツがある。…まあ、虫なんて室内に侵入してきたら皆殺しですがね。

個人的にはいっその事こと、モリなんて人物はホントは居なくて架空の人物のモキュメンタリーみたいだったら更に想像力を働かせられた様な気もしますが、それだと山下敦弘っぽくなっちゃうか。

はい、もう最高です。出来ることなら、自分もあの庭に行きたいれ独自の時間が流れるあの庭に。
…なんなら樹木希林さん、今もあそこで、小指の先くらいの大きさになって、今尚ぐんぐん小さくなりながら普通に暮らしてそうじゃないですか…⁇