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ひかりの歌のニューランドのレビュー・感想・評価

ひかりの歌(2017年製作の映画)
3.8
☑️『ひかりの歌』(3.8)及び『都会の女』(4.6)▶️▶️

これは、短歌集ピックアップから発想された内容を、興行を考えない立場の人たちが創った作品ということで、当方の利用電車がダイヤの乱れで始めへん観れなかったことも加え、今時の映画と明らかな異質の現在からの残され感を感じ続けた。独自のムラ意識的なものをゆったり感じさせる作品で、良くも悪くも現代という時間や空間のせわしなさを切り離したようなトーンになっててかなり、特異かつ快適な空気を奥に感じ続ける。ムラといっても閉鎖的な日本特有の単位でもなく、それもあるが他者·部外者·異世代者に対し、多分に図々しく、線も引かずに馴れ馴れしい。それも極めて自然体に行われるので(立場越えたケレンのない恋の告白、別れのおおっぴら惜しみ、性も平気なナマ歌らの感銘、罪や悔いも問わぬ姿勢)、その範囲が独自のムラ感覚となり·変な拘束感、ある一線が生まれて、それはそれより外の世界·つまり現実の趨勢に対して引かれている、なので、一斉に押し寄せると、泣き出したり、現実のスタート感にハッと立ち戻ったりして、本能的に関係を断ち切ったりする。しかし、恣意·悪意はなくしこりは残らない。世界は変わらずどこかに永続していくように思える。この世界に個人的には、性を商品化どころか、普通の一般映画より、はるかにつましく生活の懐ろを等身大に描いてた、嘗てのピンク映画や、ロマンポルノの、社会的話題の華々しくない方の、底流的作品群のテイストを思い起こす。おまけに、素人起用も多く、台詞の間の妙な間、何か論理的に良く分からないが納得もしてゆく会話内容、どこかしら、小津的な品格·バランスがあるではないか。そう、ここのムラとはいまや、嘗ての日本映画の気づかない位の当たり前描写だけに残り、しかし滲み渡ったものは、どこかに今も現実に存続している、抱き続けてる半ば希望·夢想の、形としては日本映画フィクションの底流のムラなのだ。
ピーカン以外は、どこかくすんだ色調、軽いパンや縦フォロー以外は、長めフィクスの多い画面、しかし、浅い切返し、寄り、望遠、間を置かずカット追い重ね、等別に端正にこだわってもいない。赤の色や、ステージ、うどん屋らで、4話の人物らは扇の要にも現れ重なるが、高校臨時女教師、GSバイト·ランナー女校生、亡父軌跡訪ね旅にライブ歌手、失踪夫戻りを迎え本屋の妻、は広い共通姿勢がある。
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しかし、この原点回帰的力は、嘗ては大手の普通の企画でよりストレートになされていた。その力強さは、ヘタに作家の作品でない分、あっけらかんに圧倒的に貫ぬいてくる。2、3年前にヴェーラで『都会の女』が予定表にあった時、ポピュラーじゃないけどドエライ傑作と鑑賞を勧めたが、「落ちるね、平凡」と言われ、今回のスケジュールを見て「まだ観てないから観なくちゃ」と観た記憶まで消えていた、知人との事がある。それくらい、小麦を高い相場狙いで売りに都会に出て半ば失敗も·食堂のウエイトレスを嫁として連れ帰り、支配的·封建的な牧場主の父の反対に屈しかける青年、というあまりにありきたり·単純な内容、語りも平凡そのもの·格調なし、バジェットや作り込みも、この映画史上有数の偉大な天才の前後作に比べ、セットの杯数やロケーションのスケール·贅沢さ·周到さにおいてかなり劣る、この作は、私見においては、より映画的幻想性のイリュージョンに頼らず、シンプルさとストレートさがそのまま造形の尖鋭~普遍と一体化、新婚夫婦の純愛と葛藤を描き、女性像の、積極的で全体と未来を見抜くキャラ·現実的で瞬発的な行動力とリアクションの速度と迫力·毅然として弱々しさのないあっけらかん·期待される性性の拒否、の内容の直截性、においてもこの種の前衛にして古典『アタラント号』を上回りかねない、この種の範囲のものの最高の傑作であると思う。必ずしも充分な条件が揃っていない事も含め、私には理想の最高の映画である。
「田舎の人は純朴と清潔と思ってのに。大口だけ」「彼奴は親父に逆らえん。収穫後、俺とここを出よう」/「弁明はなしか」「私を信じるか信じないかだけ」/「お前の代わりに親父に大口を叩いてやったぜ。俺たちはすぐにここをやめる。俺と来い。」/「私はひとりで去る。貴方は私を信じてくれなかった。私が1人で去ることであの人たちが戻るかも」/「射ったことより僕ら2人への仕打ちの方が。2人だけで生きてく所へ向かう」「許してくれ。見捨てないでくれ。謝る。わしがケイトを探しに」「いや、僕が」「···収穫が終わるまでわしらも残る」 都会も田舎のセットも必要よりも一回り大きく、それでいてスケールを誇り感じさせるような事はなく、大窓越しの独自外景ミニチュアも、逆に店内原寸以上に延び高い抽象呑込みセット·(退くと)店外の雑踏を導く大鉄階段も、スクリーンプロセスめも、創り込んでのリアルもファンタジーも感じさせない、人間の生理と希望にマッチした空間そのもので、異次元ではない。現在の色々機材軽量遠隔操作化·CG化が進んだものと比べても、人間と囲む無機物との一体化が高次元·別次元で成されてある。人の動きに併せての上下左右を選ぶティルト·パンのフィット·過不足ない速度と距離は、的確で自在さを保っている。店内カウンター沿い斜めめスムースや、馬や馬車上のリアルな、フォローは軽さと適切な重力を持ち、広いセットでの単調を破るカーブの軌跡も普通·かつダイナミズムを内包する。後方からの馬車のせり上がり覆い感の力も。カッティングも収束せずに、パンで追う以外に、横ズレ、僅かの角度サイズ変重ね追いのピタッとフィット·柔軟リアル、の他90°変·縦目のリバースの埋め、近い複数者の各狭め空間内の対応、が全く飾りなくも表現のトップそのもの続き。ヒロインの男の圧力に対する乗りだしや抜けきりとその意志の迫力が一気連なりに捉えられ、全てはドラマの作った感は全くない。場の縦の延びを露わにしたり、人物の内に迫る縦の移動も見事。スクリーンプロセスでは動き流れる家屋が映像処理と主観感覚の中間で薄まり歪み横に流れ拡がりめの不思議も感じ得るトーンとなってる。人の道路駆けつけと小麦相場の黒板書き換え頻繁の·横移動逆繋ぎめや、馬群が引き人群が固まり乗った刈入れ機械の全体と細部の形·フォロー速度力、も凄い。
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