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恋とボルバキアのhorryのレビュー・感想・評価

恋とボルバキア(2017年製作の映画)
4.0
「みんなちがって、みんないい、ってみんな言う」というコピーがとても秀逸で、セクシュアリティやジェンダーが揺らぐものであることが、「心」を込めて描かれている作品だった。

「心」というのは、あまり使いたくない言葉なのだけど、十三の第七藝術劇場での上演後にあった、小野さやか監督+出演者のみひろさんのトークで出てきたもの。
観た後に考えていたのは、作品内容より、ドキュメンタリーという手法についてだった。

ドキュメンタリー映画の手法について詳しくないのだけど、そこで起こっていることを撮影する、というイメージを持っている。カメラや監督というのは透明人間のような位置で、出演者を俯瞰し、淡々と記録する(もちろん、作品である以上、ただ単に出来事を映したものではなく、フィルムの編集やカメラの位置、出演者とレンズの距離、音声などすべてに制作者の手と意志が入っているのだけど)。
『恋とボルバキア』は、そこで起こっていることの記録でありながら、監督の存在が色濃い点が印象的だった。

『恋とボルバキア』は、とても監督と出演者の距離が近い作品で、直接、監督の発した言葉によって出演者に大きな動きが起こることもある。
インタビューが対話であるとしたら、この作品自体がカメラを通した対話といえるのかもしれない(一般的な対話ではないが)。
出演者はカメラの前で自分を「演じて」いるように見える。「演じる」というのは、嘘をつくとか、誇大に表現するとか、そういうことではなく、自分のセクシュアリティやジェンダーを、カメラを経由して自分自身に問うている姿が、そのように見えるということ。

自問する姿を、出演者が演じながらも赤裸々に見せるということが起こっているのは、監督との関係にあるのだろうし、「ひっかかり」を起こすために、時に自ら介入していく監督の方法は、イメージとしてのドキュメンタリーとずいぶん違うものだと思った。
それをみひろさんは、「心」がこもった撮影と表現したのではないか。

作品は、揺らぐセクシュアリティやジェンダーを、恋愛などの親密な関係性や、家族を軸に描いている。それは、「寛容」ではなく、その人をその人のまま受け入れる信頼のあり方だ。
本作を私が面白く思ったのは、そういう出演者をめぐる関係性に監督も含まれた作品だった、ということ、だったのかなと思った。
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