このレビューはネタバレを含みます
「夜の大捜査線」はアメリカ南部の人種差別が色濃い時代の物語として、差別や偏見と闘いながら、論理的に事件を解決していく冷静な判断能力と解決力を備えた黒人刑事と、地元の保守的な人々や警察との戦いを描いている。この映画は警察映画を超え、人種差別を超えた人間の心の交流を描いた作品として記憶に残る作品である。
黒人がエリートで白人は愚か者という、当時の観客からすると意表を突いた設定。
恐らく映画史上初の「白人よりも優れた黒人」が登場する映画だ。
思い込みだけで逮捕したり、街の有力者の言いなりだったりという腐った田舎の警察署長(白人)と都会からきた敏腕刑事(黒人)の二人を軸に展開する、いわゆる「バディ・ムービー」である。
最初は反発しあっていた二人が事件を通じて協力関係になり、いつしか友情を築くというパターン。
この手のものだと二人の関係がドラマチックに変わり、最後は無二の親友みたいにベタベタする展開も多いが、さすがにこれはアメリカン・ニュー・シネマ全盛の時代だけあって抑制が効いている。
オフビートでほろ苦い雰囲気の映画だ。
導入でのさりげない伏線。
主人公二人の対比。
豊かな個性の脇役。
巧みにミスリードを誘う展開。
中だるみさせないタイミングのよいアクションシーンの挿入。
主人公たちの和解と別れにおけるカタルシスなど。
まさに脚本のお手本とも言っていい要素が豊かに詰まっている。
ちなみにこの作品、スパイク・リーによる「映画制作者になりたい人は必ず見ておいたほうがいい映画」のひとつに数えられている。
アメリカ南部ミシシッピ州にある小さな町の駅に夜行列車からひとりの黒人(シドニー・ポワティエ)が降り立った。
一方、寂れたダイナーで軽食を食べた巡査のサムが、うだるような暑さの中、パトカーで巡回にでる。
いつも全裸で窓にたつ女を眺めて路地へ。
そこで死体を発見する。それは町の有力者のコンバートであり、明らかに殺人事件であった。
人種偏見の強い地方であるために、駅の待合室にいた「よそ者」の黒人は、巡回中の警官(ウォーレン・オーツ)によって容疑者として連行され、ビル・ギレスピー署長(ロッド・スタイガー)の前に突き出されてしまう。
しかし、あからさまな侮蔑と嫌悪にさらされているこの黒人の男は、ペンシルベニア州フィラデルフィア市警の殺人課、敏腕刑事ヴァージル・ティッブスだった。
滅多にない殺人事件に手を焼く田舎町の警察は、地元市長からの圧力もあって、屈辱感を覚えつつも都会のベテラン刑事ティッブスに捜査協力を依頼する。
白人署長はもともと頑固な差別主義であったが、次第にティッブスの刑事としての能力に一目置くようになる。
ただし、人種偏見が根強い町であるために、捜査には困難が常につきまとう。
紆余曲折の末に捕まえた犯人は冒頭で登場したカフェの従業員だった。
妊娠させてしまった女(いつも全裸で窓にたつ女)の中絶費用を盗むために、実業家コンバートを殴り殺したのだ。
事件はようやく解決し、ティッブスと署長との間には奇妙な友情のようなものが生まれていた。
ティッブスが町を去る日、駅には彼を晴れやかな表情で見送る署長の姿があった…。
今回改めて見直してみると、やはりシドニー・ポワチエとロッド・スタイガーの演技力が素晴らしい。
二人の間のとり方というより、それぞれがさりげなく見せる仕草に、見事に登場人物の心中が反映しているのだ。
ギレスピー署長の指示で怪しい人物を捜すと、たまたま列車を待っていたティッブスを見つけ逮捕。
登場したギレスピー署長は苦み走った顔で、やたらクチャクチャとガムをかんでいる。
高圧的で他人を寄せ付けない、他人を信用しない署長、かつ黒人を奴隷としか見ていない南部の人間性を的確に見せる見事な演出である。
登場からして、火花散る素晴らしい導入部だ。
無罪が立証されて、今度こそ帰ろうと駅で列車を待つティッブスに、優秀な刑事と知った署長が引き止めにやってくる。
いままで横柄に前をあけていた上着のジッパーをさりげなくあげる。
まるで我慢して敵意を封じ込めるかのようだ。
さらに本庁の署長の意見で協力するように言われたヴァージルが、いったん断ってそっぽを向く。
一度振り向き、そしてまたそっぽを向いて嫌々ながらも了解する。
南部の警察が差別的対応が気に入らないが、事件解決という目的のため、ここは我慢して捜査に当たろうとするプロ意識。
慣れ合いなど入り込む余地が無く、火花散る関係性が緊迫感を生んでいる。
中でもやはり「みんな私をミスター・ティッブスと呼んでいる!(They call me Mr .Tibbs!)」は名言。
蔑む対象であるはずの黒人ティッブスの的確な推理に感心し、本庁では何と呼ばれていたかと問いかけた警官に、ティッブスが苛立ちの末に答えた言葉だ。
彼の冷静な思考と手際の良さから、黒人といえど、東部では尊敬されていることが、Mr.のたった一言で分かる。
かつ人種は違えど、他人に対して尊敬の念を抱かない南部の白人の愚かさを一喝している。
「よくぞ言ってくれた!」と同じ有色人種としては拍手喝采のシーン。
主演の2人だけでなく、助演俳優陣も味わい深い印象を残している。
若い巡査の姿から物語は始まるのだが、この巡査サムを演じるのは、まだ売れてない時期のウォーレン・オーツ。
後にサム・ペキンパー映画でスターになる彼だが、後年の映画での渋い役柄ではなく、間抜けで怠け者の警官を演じている。
しかも、物語の真犯人であるダイナーの店員ラルフに、からかわれているのである。
この警官サムが来る寸前になると、ラルフは蝿のたかるマズイ食べ物しか、店先には陳列しない。
そして、目の前で輪ゴムで蝿を殺されたり、子供っぽい嫌がらせをされる。
オーツは当時40前にして、まだ売れてない役者だったので、苦労人だけあって敗北者的役柄をさせたら抜群にうまい。
あのへらへら笑いの裏に隠れてる救いようのない絶望感。
600ドルを貯めて銀行に預金している健気さなどは泣けてくる。
意外に彼がこの作品に登場する白人男性の中で一番まともだったのかもしれない。
被害者の未亡人ミセス・コルバート役で、当時赤狩りにより映画界を干されていたリー・グラント。
(「探偵物語」でかつてカンヌ映画祭主演女優賞にも輝いていた事もある女優)
彼女が最初バージルの手を拒むのは、黒人への嫌悪ではなく、男性に支えられることによって崩れ落ちそうになることを拒む自尊心からである。
彼女は東部出身であり人種的な偏見がないからこそ、バージルの手を拒み、そして、気持ちが落ち着くにつれ、彼の手の温もりを受け入れるのである。
白人の未亡人を慰める男性が、黒人という設定も当時としては初めての設定だったはずである。
気高く聡明な女性像が伺える。
一方、コルバートの財布を盗んで捕まる男ハーヴェイを演じるのは同年「冷血」で話題になるスコット・ウィルソン。
朝日の中の闘争劇は美しく、チンピラ然とした話し方が、なかなかの存在感を示している。
この町の支配者であるエンディコットは、露骨にバージルを屈辱する。
エンディコットを演じているのラリー・ゲイツ。
「コーザ・ノストラ 」のハーランズ判事か
「ボディ・スナッチャー/恐怖の街」のDrカウフマンくらいしか他に印象が無いが、当時の渋い映画のバイプレイヤーである。
「なぜ君がその植物が好きなのか教えてあげよう。君のような黒人と同じで手がかかるからだ。肥料をやったり世話が大変だからだ」
しかも、ティッブスから殺人事件の尋問を受けていると感じるやいなや「生意気な!」とティッブスの頬を打つのである。
それに対してすかさず、ティッブスはエンディコットの頬を打ち返す!!
ポワチエがのちに言う「この作品は黒人が白人を殴り返した初めての映画」の瞬間だ。
そして、エンディコットは屈辱に涙を流し、バージルは「絶対にあいつをめちゃくちゃにしてやる!」とギレスビー署長に吼えるのである。
見ているコチラは「ザマァみろ」なのだが、そこでギレスビー署長がティッブスにに言うセリフがすごい。
「君は考え方まで、俺たちと同じだな…」
実に皮肉な伝え方で、憎しみの連鎖が生み出すものの空しさを伝える見事なシーンである。
そして一瞬ギクッとするバージルの表情。
自分は差別を受けて傷つこうとも、自らの暴力を良しとしなかった「罪を憎んで、人を憎まず」の信念が崩れた自分に愕然とする。
この映画の深みを感じる瞬間である。
しかし、このエンディコットを始めとするこの町の住人の差別意識は「黒人びいきめ」の一言に集約されるのである。
この言葉に秘められた圧力。
日本のアジアの他国に対する差別と、それに対しての、アジアの一部の国の人々の日本差別の構図に通じるものがある。
監督の演出かそれともシドニー・ポワチエの演技か、このほんのわずかなショットにもうならせるものがあった。
殺人事件の二転三転するミステリーのおもしろさと、ティッブスと署長の二人の人間ドラマを、微妙なバランスで描き分けるノーマン・ジュイソンの見事な演出。
さらに背景に黒人差別を頻繁に盛り込んだ社会性、未だ残る北部と南部のアメリカ社会の矛盾。
綿花農園で多くの黒人が働いているシーンでの「農園労働者=奴隷」的な空気が、差別風習を強く感じ取れる。
そして背後に流れるのはレイ・チャールズのソウルフルな歌声、クインシー・ジョーンズの甘いメロディ。
ジャズの発祥地として名高い、さらに南のニューオーリンズを出すまでもなく、黒人音楽と文化は、南部の土地に染み付いているかのように、ごく自然に聞こえてくる。
単純なひとときの物語はずなのに、実に奥の深い見事なドラマに仕上がっているのである。
最初は誰からも憎まれたティッブスが一人また一人と周囲から好意を持たれていく。
しかし、町全体としては決して黒人としての彼を認めない。
このシリアスさも、不自然にヒューマンドラマにはならず、また署長と部下たちのさりげない確執なども交え、あくまで署長とティッブスの人間関係から視点をそらさない。
ギレスビー署長がティッブスを家に招くシーンには何とも言えぬ情感が漂う。
今まで緊張感に満ちていた二人の関係がぐっと接近する瞬間である。
このシーンの剥き出しのギレスビーの姿が心を打つ。
ギレスビーは告白する。
妻子もなく、友人もいない寂しさを。
「家に訪れてくれる人もいない…」と。
そして、ティッブスに同情されたギレスビーは「黒人に同情される必要はない!」と強がるのだが、弱々しいギレスビーの姿を見た今となってはティッブスもショックは感じても、もはや怒りは感じない。
ギレスビーは生まれてこの方、ほとんど他人と距離を置いて生きてきたのであり、
感受性の高いティッブスはそういった彼の性格を察知している。
「差別に対する」怒りがこみ上げてこないのである。
憐れみすら感じているのだ。
「根深い差別に対して、必要以上に繊細になることは良くない。」
差別が取り除かれていく瞬間とは、差別していた人間が、自己嫌悪に浸る瞬間なのである。
そしてティッブスは続ける。
「お互いの違いに目をつぶる必要などない。むしろ目をつぶる方が差別を増長させるだけなのだ」
人間として、お互いの本質を分かりあおう、歩み寄ろうと語りかける名シーンだ。
このシーンがあるからこそ、あの素晴らしいラストシーンにつながる。
ラストシーン。
事件を解決し、列車で旅立つバージルの鞄を持ってあげる署長の仕草。冒頭とは別人のように暖かい。
そして「元気でな」と声をかける。
この距離感がいい。
ヘタに馴れ馴れしい友情が芽生えるよりも、お互い理解し合えないところは残しつつも言葉は交わさずにニヤッと笑いあう。
完璧な友情ではなく、あくまで若干の好感、というところで止めておいたのも、作品全体を顧みると、とてもバランスが良い。
大人の男の心の余裕を2人に感じる。
何度みても、このラストシーンは心温まるものがある。
人種差別が厳しいミシシッピ州にある小さな町で起きた殺人事件と偶然捜査に参加するようになった腕利きの黒人刑事。
そしてことごとく捜査に対立する白人の人種差別的な町の警察署長と、その捜査の様子を白い目で見ている住民たち。
緊迫した対立の関係には、当時の公民権運動の緊迫感を感じ取ることができる。
黒人刑事と白人署長率いる地元の警察の人間達の考えの違い、批判、差別、中傷、決めつけた考え方。
これが黒人刑事の手法や人間性に触れるにつれて、次第に融解して行く所が見どころだろう。
いかにこの映画が画期的だったか?
それは時代背景を考えると分かる。
1960年代という公民権運動真っ盛りのアメリカにおいて製作された、非常に志の高い意欲的な作品。
1955年にローザ・パークスという42歳の一主婦のバス・ボイコット事件から始まった公民権運動も、1964年公民権法制定により実を結ぶ。
しかし1965年にマルコムXが暗殺され、1968年にマーティン・ルーサー・キングJrが暗殺されてしまう。
そんな二人の偉大なる黒人運動の代表的人物の暗殺の間の1967年に作られた作品である。
もっと深く人種差別の実態を鋭く描いて欲しいとか、サスペンスとしては盛り上がりに欠けるのではないか?といった意見の前に、この時代にこの作品を作った勇気を讃えるべきである。
なぜポワチエではなくスタイガーが主演男優として受賞したのか?とかいうアカデミー賞への批判精神も大いに結構だが…。
それ以上にこの時代において、これだけのクオリティで作品を作り上げたことに素直に驚嘆すべきだろう。
今年度のアカデミー作品賞「グリーンブック」が気に入ったならば、絶対に見るべき作品である。
あの時代の空気を、ありのままに感じることが出来る。
結びに。
個人的な話だが、私自身、謂れもないイジメを受け、嫌な気持ちで少年時代を過ごした。
時代は「校内暴力」という言葉が頻繁に報道された頃、事ある毎に中傷を受け、偏見を感じながら学校に通った。
そうした学生時代と社会人時代も含めて、色々な人と会う中で、人として正しい事をして行く事の大切さや、平等に付き合う事の大切さ、傲慢な態度を取らない事、そして信頼し合う事を学んできた。
この映画は、そうした多感な時期に偶然見たのだが、何か黒人刑事が自分の立場と重なる様な感じがして印象に残っていた。
(ティッブスほどの能力と自制心は私にはないのだが)
あからさまに映画の表現としては出てこないかも知れないが、人間としての成長を主演の2人から学ぶことが出来る映画だと思う。