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ファントム・スレッド(2017年製作の映画)
4.3
 1950年代ロンドン、白を基調とした豪邸「ハウス・オブ・ウッドコック」の1日は静かに幕を開ける。いかにも神経質そうな風貌をしたレイノルズ・ウッドコック(ダニエル・デイ=ルイス)は時間をかけて身なりを整え、いつもの朝食の席に着く。同席するのはレイノルズの姉のシリル(レズリー・マンヴィル)と彼の恋人が並ぶが、赤の他人である彼女との間で口論となる。亡き母親の幻影に取り憑かれた男は時々情緒不安定になる。そんな時、彼の一番の理解者であるシリルは別荘に行くことを提案する。彼の運転する車はコーンウォールの岸壁の脇を進みながら、ホテルに隣接されたレストランに辿り着く。中ではおっちょこちょいのウェイトレスがトレーを落とすがその瞬間、レイノルズと目が合う。それがアルマ・エルソン(ヴィッキー・クリープス)とレイノルズとの運命の出会いだった。夕食を一緒に食べませんかと誘惑する彼の言葉に対し、アルマは「くいしんぼうさん」と茶目っ気たっぷりにメモをしたためる。仕立ての良い英国製スーツに身を包むレイノルズに対し、額を出しブラウンの髪を後ろに束ねる女の風貌は、英国出身ではなく東欧に出自があるように思えてならない。

 50年代の英国オートクチュールの華やかな世界を描いた物語は、気難しいドレスメーカーと田舎のウェイトレスとを強い運命で結ぶ。当初、レイノルズが彼女に魅せられるのは、自身が手掛けるドレスを纏う彼女の繊細なボディラインに他ならない。弟の恋の指南役をも務める姉のシリルは、初めて会ったアルマを厳しい表情で値踏みする。上から下まで食い入るような表情で見つめられたアルマは、同姓からしげしげと見つめられた下着の下の乳白色の乳房とその大きさに顔を赤らめる。ところがシリルは弟が見初めた女性に対し、「理想の身体ね」と褒め称える。それを機にアルマの「ハウス・オブ・ウッドコック」のフィッティング・モデルとしての生活が幕を開ける。姉弟とアルマ、亡き母親の幻影との4角関係を決定付けるのは、何度も登場する食卓の場面に他ならない。愚直なまでにその日のルーティンを、静かに淡々とこなすレイノルズに対し、アルマが発したバターを塗る音は家主にとって心底不快な音だが、その日を境に男と女の立場はゆっくりと位相を変える。

 クリストバル・バレンシアガとクリスチャン・ディオールをモデルにしたであろうレイノルズの人物造形は、お針子さんたちのイメージでは絶対的な権力者だが、唯一アルマにとっては別な魅力を放つ。ヒッチコック詣でのようにLAから英国に初めて舞台を移した物語は、『レベッカ』と『レイチェル』の二面性を有し、トリュフォーの『アデルの恋の物語』のように男女の主従関係が巧妙に入れ替わるカタルシスこそが醍醐味である。グラマラスな新婦の容姿に直立で向かい合ったアルマの心にもない「おめでとうございます」の言葉、病巣で見え隠れするレイノルズのピンク色の靴下、グツグツ煮込んだスープをゆっくりと掻き回す彼女のその姿に潜む狂気、新年祝いのパーティで象に蹴飛ばされたフィアンセの絶体絶命。レイノルズの挑発的な微笑みだけが、クライマックスをあらかじめ想起させる。監督だけに留まらず、ポール・トーマス・アンダーソン自身が脚本・撮影も手掛けた、思わず心が震えるような途方もない傑作の誕生である。