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ファントム・スレッドのohassyのレビュー・感想・評価

ファントム・スレッド(2017年製作の映画)
3.5
「最後の?『マイ・フェア・レディ』ストーリー」


「マグノリア」を作ったのが僕と同い年のクリエイターだと知った時の驚きを、今も忘れられない。
とんでもないのが居たもんだ、と。

PTAはずっと、いわゆる「父殺し」をテーマにしたストーリーを描いてきて、その偏執的な執着が映画としてアートやエンタメに昇華されていてすごいなと思ってきた反面、ファザコンの気がほとんどない自分は、彼の作品に対してどこか客観的でもあった。

しかし、今度は男女の話である。
感情移入できる。

利口だけれどバカな男とバカ風だけれど強い女の組み合わせで、男>女だったバランスが、男=女(もしくは男<女)になっていくという構図はとてもクラシックで、名作と語り継がれる古典映画の多くを占めている。
これさえやっておけば名作になる、と言ってもいい。
こういう物語をみて、男は我が振る舞いを反省し、女は我が意を得たりと溜飲を下げる。
そして2人は、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。
ってやつ。

男は自分のやりたいことだけに向き合い、女は男をどうにかしようとしてばかりで、観ている側は男にイライラし、女に健気だと肩入れし、最終的にそれが是正されることで物語としてのカタルシスを迎える。
普遍的で、とても理解しやすい。
しかし。
本作の舞台になっている50年代はともかく、これだけ男女が平等になった現代で、どうしてまだこの構図が通じる(ように思える)んだろう。
やっぱりまだまだ男尊女卑は無くなっていないということだろうか。

違う、そうじゃない(鈴木雅之)。
この構図の普遍性も、そろそろ終わりだと思う。
分かるわーと思えるのは、PTAの世代(=僕の世代)くらいまでがきっと最後だ。
そもそも男女の差というのは体力の差であって、女性は男性の体力に頼ることで生命を守り続けてきた。
もう少し正確に言えば、精神的にオスを支配することで「守らせて」きた。
その名残が現代に入っても残り、男性は権威や地位と金で女性を支配してきたからこそ、それが逆転する物語に感動を覚えてきたのだろう。
しかし今はもう体力だけで生き残ることはできないし、地位や金というものがどんどん価値を落としてもいる。
逆に価値が高まっているのは人間力や信頼性、行動力、コミュニケーション能力などからくる「つながりの力」や「問題解決力」だ。
これは本当に男女の差がないし、さらに個人のパワーが発揮しやすい環境が整いつつある今では、もはや支配なんてできない。
だからこれからは、本作や過去の名作と言われる作品を観ても、「なんでこんな男に時間かけるの?無駄じゃない?」って思うだけなんじゃないかな?って思ったりもする。

ちなみに僕は幸せな家庭の基本は「カカア天下」だと確信しているし、最後の男女不平等世代として常に「妻は一生甘やかす」という気持ちを忘れないようにしています。
ホントにどうでもいいですが。

全然レビューになってない。

人間関係の逆転劇として痛快であることは確かなので、エンターテイメントとしてはまだまだ価値があるとは思う。
あらゆる設定で使い倒せるし、男女が逆の立場になってもいい。
本作のような意外性を加えることで、ミステリーやサスペンス、はたまたコメディへと舵を切ることもできる。
とても優れた構図です。

ダニエル・デイ=ルイス(・と=の正しい位置がいつまでも覚えられない)の存在感とウッドコック感はもちろんすごいのだけれど、彼を取り巻く二人の女優がとても素晴らしかった。
アルマ役のヴィッキークリープスはまだ新人と言っていい段階の俳優だけれど、稀代の名優を相手に堂々と渡り合い、貧乏な田舎娘から華やかなモード界のモデル、そして男を支配する女までを、全くブレることなく演じている。
彼女の芯の強さがそのまま、アルマの強さとして表現されていたのかもしれない。
演じる役に深く没入することで有名なダニエルは、本気で彼女に支配されてしまったのではないだろうか。
からの引退宣言なのでは?

もう一人の女性、ウッドロックの姉・シリル役のレスリーマンヴィルも、自分の人生すべてを弟に捧げ、母親役に徹していながらもどこか女でもある揺らめきのようなものを、言葉少なに表現していた。
ずっと面倒を見てきた弟であり息子であり夫だった男が、若くて強い女に支配されていくのを見るのは、どのような気持ちだろう。
そんな思いを起こさせるような、強さの裏側にあるデリケートさを垣間見た。

本作では、PTAはカメラも回したという。
その効果なのか、手つきのクローズアップにはかなりの執着というか、粘質を感じた。
それは前半ではウッドコックがアルマの採寸をする手つきであり(下着越しに手先が乳首をかすめるあの絶妙さ)、後半ではアルマの料理の手つきである。
そのどちらもが「相手を支配する行動そのもの」であることを、示していたのだろうな。
監督、脚本から撮影(編集はもちろん口を出すだろう)までを自分でこなしてしまったPTAは、これからどこに行くのだろう。

「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」以降、熟練というよりは老練した感のある同い年のクリエイターを、これからも距離感を保ちつつ見ていきたい。
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