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日日是好日の小のレビュー・感想・評価

日日是好日(2018年製作の映画)
4.8
観終わった後、なんか禅で悟るみたいな話だなあと思ったら『日日是好日』というタイトルは禅語で<雲門禅師の悟りの境地を表した、最高の言葉>ということを知り、無知な自分にガックリ。
(http://www.daruma.or.jp/zen/detail.html?zen_id=11)

<日々是好日とは、そんな(引用者注:良し悪しや損得などの)こだわり、とらわれをさっぱり捨て切って、その日一日をただありのままに生きる、清々しい境地です。たとえば、嵐の日であろうと、何か大切なものを失った日であろうと、ただひたすら、ありのままに生きれば、全てが好日なのです。>

そんな禅の極意を掲げた本作は、茶道が禅の「只管打座(ただひたすら座禅に打ち込むこと)」と同じ、即ち、それに打ち込むことによって<「問題を分析し解き明かす」のではなく、「問題から飛躍し『答え』を直接体験することを目指>すという点においてまったく同じであることをとても良く示している。
(『史上最強の哲学入門 東洋の哲人たち』飲茶・著、以下引用元は同じ)

悟りの境地は、階段をのぼるようにして到達するのではなく、ある時一気にそこに達する。そのことを典子の黒木華さんが表情で演じるのが本作のクライマックス。

そして、悟りを超えたその先を描いているのが本作の真骨頂だろう。私が座右の書としている本の著者・飲茶先生によれば<禅語を言語(理屈)ではなくイメージ(直感)で伝えようという試みである>十牛図の<神髄、「核心部分」は「九番目と一〇番目の絵の追加」である>という。

<最初の頃の「十牛図」は、八番目の絵「すべてが消えさった無の世界を表した人牛具忘」を最後の絵として作成されていたのだ。だが、廓庵という禅師がそこに九番目と一〇番目の絵を付け加えた。>

<つまり、「八(釈迦の悟り)」を最後の境地とせず、そこに達した者は、次の境地「返本還源」に進むべきだと禅は主張するのだ。(略)せっかく到達した境地を捨てて、元の世界に戻ってくる。(略)そして、それから彼は最終境地「(十)入鄽垂手」にいたる。>

<彼は、市場へとでかける。仏教で禁止されている酒を飲み、魚を食べ、普通に楽しく暮らしていく。時には昔の自分と同じように牛を探している別の牧童と会うこともあるだろう。しかし、だからと言って、悟りすました態度で教え導くのではなく、ただその出会いを楽しむ。彼はそういう境地を生きるのである。>

<ここで決して見逃してならない一番重要なことは、「十」の絵で、牛を見つけて帰宅したかつての牧童が、「立派な人」「悟った偉大な聖人」ではなく、「ちょっとだらしない陽気なおっちゃん」として描かれているところだ。(略)即ち禅は、今まで偉大とされてきた「八(釈迦の悟り、無我の境地、梵我一如)」よりも「ただの気いいおっちゃん、おばちゃん」の境地の方を上においたのである。>

もうおわかりだと思いますが、この<ただの気のいいおっちゃん、おばちゃん>こそ本作の武田先生であり、演技を超えた樹木希林さんの存在そのものなのだ。典子(黒木華さん)は「これからが始まりかも」みたいな感じになっていたけれど、その先にあるのは十牛図の「九」と「十」の絵。それは映画の中の武田先生、私たちの中に残る樹木希林さんの姿である。

さて、飲茶先生のペンネームの由来は次の禅話だという。

<ある禅師が悟ったとき、周囲の人たちは彼にこんなことを聞いた。

「悟るとどうなるのですか? 何か起こりましたか? まず何をしましたか?」

その禅師はこう答えたと言う。

「別に何も変わらなかったよ。ただ、『茶』を一杯所望しただけさ。だってお茶を『飲』んで目を覚まし、いまを味わって生きる、それ以外ほかに何かすることがあるだろうか」>

ああ、『日日是好日』。

●物語(50%×5.0):2.50
・テーマは好物。さすがに座禅では動きがないから、映画では茶道なんでしょうね。

●演技、演出(30%×5.0):1.50
・敬意と感謝を込めて。典子の黒木華さんもとても良かった。

●画、音、音楽(20%×4.0):0.80
・美しかったです。
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