グッポラ

長江 愛の詩のグッポラのレビュー・感想・評価

長江 愛の詩(2016年製作の映画)
4.5
フォルマークス試写会にて鑑賞。

信仰の対象として長江に舞台を設定し、人間にとって祈りとは何か、信仰とは何か、愛とは何か、そして救いとはなんなのかを描いた映画であると思う。

アンルーとは何者なのかという謎がこの映画の楽しみの一つだ。
「アンルーとは長江そのものだ」という意見が多い様だが、それは少し短絡的すぎると思う。
私はアンルーをひとりの女性として、捉えるべきだと考える。
アンルーは時空の違う場所を生きている様に見えるので、神(長江)の様な超自然的な存在にも見えるが、彼女が一般的な女性の人生を生きているのは明らかだ。

実は超自然的なことをしているのは、主人公の方なのである。
詩を通して彼は、船が長江を遡るのと対応するように自分の人生を遡っていったのではないか。
そこで、過去に愛した女性であるアンルーと出会い、自らの実存に関する問題を考えていったのだと思う。
詩を通して、彼は時空を遡ったのだと思う。
詩などの芸術活動は時間を遡ることを助ける。
なぜなら、芸術作品、人間の作り出す工作物は「記憶」「過去」そのものだからである。

アンルーが何かを象徴する存在なのだとすれば、信仰する人間そのものを象徴しているのだと思う。
仏像と並んで長江を見つめるラストカット。
アンルーは神でもなく、超自然的な存在でもない。もちろん、長江それ自体でもない。
仏そのものなのだ。
仏教において、仏は信仰の象徴ではあっても、信仰の対象ではない。
仏はゴータマ・シッダールタという名前の人間そのものである。

結局人間は信仰の対象とはなり得ない。
長江のような畏怖の感情すら抱くような圧倒的なものしか私たちは信仰できないし、それでしか救われることはない。
この映画は信仰の対象は女性であるというような、軽薄なことを言いたいのではなくて、人は信仰しあうこと、他者と承認し合うことでしか生きていくことはできないということをこの映画は言いたいのだと思う。
だから、この映画では「祈ることをやめた者によって殺される者(アンルーの父)」が出てくるし、「祈ることを冒涜した事で死が訪れる者(主人公の弟)」が出てくるし、「祈ることをやめることで死ぬ者(主人公自身)」が出てくる。
ラストカットの直前に唐突に挟まれる長江で暮らしてきた人々の映像。
私には、スクリーンに映し出される彼らの動きが、長江に祈る行為そのもののように見えた。

血肉湧き踊るようなエンタメ映画も好きだけれど、自分の呼吸や血液の流れを感じられるような静かな映画、祈りたくなるような映画も好きだ。
まさにこの映画はそんな映画だった。